たとえすべてを忘れても

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聖書の言葉

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

新約聖書 マタイによる福音書 1章23節

藤井真によるメッセージ

この放送を聞いている皆さまには、お一人お一人にも、ちゃんと名前が与えられています。そして、そこには必ず名前の由来や意味というものがあるのだと思います。皆さまの名前にどのような意味が込められているのですか?とお聞きできればと思うのですけれども、残念ながらここでそれをお聞きすることができません。きっと、皆様のご両親などが、こういう子どもに成長してほしいという思いが込められているのだと思います。

ちなみに、私の下の名前は「真(しん)」と言います。真というのは、主イエスがお語りになった言葉「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)という箇所から取られたものだそうです。私自身が真実な人間になってほしいということよりも、イエス・キリストの真実、真理に支えられて成長してほしいという、親の思いが私の名前には込められています。

ところで、この御言葉をお語りになりました「イエス・キリスト」という方のお名前にも、ちゃんと意味があるのをご存じでしょうか。「イエス・キリスト」というのは、丁寧に言えば、色々と意味があるのですけれども、その一つに、冒頭でお読みした聖書の言葉にありましたように「神は我々と共にいる」という意味があります。では「共にいる」「一緒にいる」ということはどういうことなのでしょうか。少しそのことについて考えてみたいと思うのです。

もう7年ほど前になりますけれども、日本の映画で「明日の記憶」(あしたのきおく)という映画が上映されました。この映画は、アルツハイマーという病にかかった夫に、その妻と家族が病に向き合っていく物語です。「アルツハイマー病」というのは、脳内に異常なたんぱく質がたまり、脳が萎縮していく病だそうです。その結果、高度の認知症となってしまいます。そして日常生活をすることが困難になっていきます。病気の進行を遅くする薬はありますが、完治する療法はまだ見つかっていないようです。

私たちも、普段の生活の中で、「もの忘れ」をよくしてしまうと思うのです。ご高齢の方とお話をしますと、「もの忘れが激しくなってねぇ」と言われることがあります。まぁ、確かに、年齢に関係なく、何かを忘れてしまうことがあります。「忘れる」というのは、大抵嫌なもので、自分が忘れたものを思い出したときには大変なことになっているということもしばしばあります。ただ、このアルツハイマーというのは、単なる物忘れというのではありません。命さえもむしばんでしまう重い病だそうです。

ところで映画の中で、鍵になるセリフというのがございます。若年性アルツハイマーの診断を受けた佐伯(渡辺謙)という男が、「俺が俺じゃなくなっても平気なのか?」と妻・枝実子(樋口可南子)に尋ねます。すると妻は答えるのです。「私がいます。私が、ずっと、そばにいます。」

「俺が俺じゃなくなっても平気なのか?」

「私がいます。私が、ずっと、そばにいます。」

この映画の中で、心に残る夫婦の対話の一つです。49歳の佐伯は、広告代理店の部長として順風満帆な人生をおくっていました。しかし、突然の病のゆえに、職を失うことになるのです。同僚の顔と名前、通い慣れていた街の光景や道を思い出すことができなくなりました。また、記憶がなくなるというのは、人の名前を忘れたり、仕事を失うだけではないでしょう。自分が生きてきた記憶さえも失ってしまうことになってしまうのではないか。そう思うと佐伯は、段々と恐れに捕われていくようになりました。今までの自分が消えてしまうということは、これまで積み重ねてきた人生に意味がなかったということではないか。そしてこれからの人生においても、記憶が無くなってしまうのであれば、何のために生きればよいのかも分からなくなっていくのです。

そんな佐伯を支えたのが、妻・枝実子でした。夫の支えるために、仕事を始め、病の進行を少しでも遅らせることができないかと、食生活を改善したり、脳の働きを活性化させるために指をよく動かす陶芸教室に通わせたりと、献身的に尽くします。「俺が俺じゃなくなっても」と弱音を吐く夫に対して、「私が(あなたのために)います」との強い愛の決心の中で、佐伯は生き続けるのです。

私が「私」として生きているということは、自分が何か立派な証を立てることだけではありません。私と一緒に生きてくれている誰かに大切にされている、そのことの中に、「私」が在るのではないでしょうか。自分が生きてきた記憶や愛する者の名を忘れたとしても、私と共に生きようとしてくれる人たちが、自分のことを覚えてくれたのならば、どれほど慰め深いことでしょう。

映画のラストで、佐伯が自分の妻を思い出せなくなる場面が出て来ます。枝実子はこの事実に、驚きと悲しみのあまり、言葉を失い、目に涙が溢れ出てきます。でも、こぼれようとする涙を必死にこらえながら、笑顔を作って、夫のあとについていく姿に心を打たれました。あなたが私を忘れても、私はあなたを忘れないという家族の愛の強さ、深さが、この映画に表れています。

この映画を見ながら、私たちを決してお忘れにならない神さまの恵みを思い起こしました。人は誰でも、人と共に生きる時、愛の限界や貧しさを覚えます。私も、私と共に生きる者たちもやがては死んでいきます。そう思うと悲しくなることがあります。しかし人間の愛の限界を、命の限界を超えて、残り続けるまことの愛と希望があることを聖書は教えています。「わたしはあなたがたと共にいる」と宣言してくださった主イエスこそが、私たちを明日へと生かしてくださるのです。この方の愛にあなたもぜひ触れていただきたいのです。

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