炊き出しの列に並ぶキリスト

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聖書の言葉

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

新約聖書 マルコによる福音書 1章9節

吉田謙によるメッセージ

アイヘンバーグという画家の描いた「炊き出しの列に並ぶキリスト」という題名の絵があります。この絵は、困窮の中にある方々のために炊き出しのボランティアがなされている時に、果たしてイエス様はどこにおられるだろうか、ということをイメージして描かれた絵です。イエス様は、一生懸命、炊き出しのボランテイアをしておられる、普通ならば私たちは、そのように考えるのではないでしょうか。ところが、この絵では、イエス様は炊き出しを提供するボランティアの側にいるのではなくて、お腹を空かせて炊き出しの列に並ぶホームレスの側に身を置いているのです。しかも、目立つ存在としてそこに並んでいるのではなくて、まるでそこに溶け込むかのようにして並んでおられる。私は、この絵を見て、「なるほど!」と思わされました。

イエス様は、人々と全くかけ離れた高貴なお方として、私たちのもとに来られたのではありません。もしイエス様が、高いところに立って、ただ無感情に悪を蹴散らすような王様として来られたのであれば、わざわざバプテスマのヨハネから洗礼を受けられる必要などなかったでしょう。しかしイエス様はそういう救い主ではなくて、天の栄光を捨てて、人間の最も底辺にまで身をかがめ、人間が味わうべき苦しみや悲しみの全てを味わい尽くして下さいました。本来、「執り成し」というのは、同じ目線に立っている者にしか出来ません。一段上から見下ろすようにして、いくら執り成そうとしたとしても、おそらくそれは見当はずれなものになってしまうでしょう。やはりその人の痛みや苦悩を一緒になって経験し、共に苦しみ、共に悲しんだ者でなければ、本当の意味でその人を執り成すことは出来ないのです。イエス様は、私たち人間を完全に執り成すことの出来るお方として、全く私たちと同じところまで降りてきて下さいました。そして、私たち罪人の列の中に加わって下さったのです。

あるキリスト教関係の雑誌にこういうエピソードが載っていました。「彼は、クリスマスなど、ただの無意味なお祭り騒ぎでしかないと思っていました。彼は親切で礼儀正しく、家族には気前がよく、他者に対しても公明正大な人でした。しかし彼には、この時期になるといつも教会で聞かされる、『神であるイエスが人となってこの世に来られた』という話が、どうしても信じられなかったのです。正直な男であればこそ、信じるふりもできませんでした。『君を悲しませるのは僕としても本当に心外なんだが、神が人になったなんて、どうしても理解できない。僕には、そんなことはナンセンスにしか思えないんだ!』男は、熱心なクリスチャンである妻にそう言うのでした。クリスマスイブには、妻は子どもたちと礼拝に出かけて行きました。しかし彼は行きませんでした。『信じていないのにクリスマスを祝うなんて、偽善者みたいな真似はできない。僕は家で留守番する。でも、君たちが帰るまでは、寝ないで待っているから!』家族が出かけて間もなくすると、雪が降り始めました。窓際に立って外を眺めているうちに、雪はどんどん激しくなっていきます。『どうせクリスマスなら、ホワイトクリスマスというのも悪くないだろう!』男は暖炉のそばの椅子に腰かけ、新聞を読み始めました。その時、外でドスンという大きな音がしました。彼は顔を上げました。ドスン、ドスン、ドスン…音はたて続けに聞こえてきます。だれかが居間の窓に雪玉でも投げているのだろうか。音の正体を突き止めるために、彼は玄関のドアを開け、外に顔を出しました。するとそこには、吹雪に見舞われ、必死になって隠れる場所を探し、男の家の窓を通り抜けようとしていた鳥の群れがいたのです。『かわいそうに!この鳥たちを、このまま放っておくわけにはいかない。そんなことをしたら死んでしまうだろう。でも、どうやって助けてあげたらいいのだろうか?』男は考えました。そして、子どもたちのポニーがつながれている小屋を思い出しました。『あそこなら、鳥の避難場所にはちょうどいい。」彼は上着を着て長靴をはくと、外へ出ました。雪はどんどん深くなっていきます。家の隣にある小屋まで歩くと、鳥が入って来られるよう、扉を大きく開いて中の明かりをつけました。しかし、鳥たちは一向に動こうとしません。「エサを見せれば入ってくるかもしれない!』男はそう考えると、急いで家に戻り、パンくずを持ってきました。そして家の前から小屋まで、点々と続くように雪の上にまきました。しかし、鳥たちはパンくずには目もくれず、雪の中で力なくはね羽をばたつかせるだけです。何とかして鳥たちを小屋の中に移動させようと、彼は腕を振りながら躍起になって鳥のまわりを歩き回りました。鳥を追いかけて捕まえ、無理やり中へ入れようとも試みました。しかし、鳥は怯えて、四方八方へ逃げ惑うだけで、明かりのついた暖かい小屋へは入ろうとしません。『僕のことを、得体のしれない怖い存在だと思っているのだろう。何をしても怖がらせてしまうだけだ。無理もない。彼らには、僕のやろうとしていることが理解できないのだから。どうすれば鳥に信頼してもらえるだろうか。ああ、ほんの数分だけでいいから、僕が鳥になれたらなあ。鳥の言葉を話して仲間になれば、“怖がらなくてもいいよ”と教えてあげられるのに。そうすれば、小屋へ案内して、彼らを助けることができるのに…』ちょうどその時、教会の鐘が鳴り始めました。男は雪の中に立ったまま、クリスマスを祝うその鐘のね音にしばらく耳を傾けました。『神の御子は、こよい今宵しも、ベツレヘムに生まれたもう……』鐘のね音が奏でるその賛美歌を小さな声で口ずさむと、彼はおもむろに雪の中にひざをついて座り込みました。そして、こうつぶやいた、と言うのです。『やっと分かりました!』『なぜ、あなたが人間にならなければならなかったのか!・・・・』こういうエピソードです。

イエス様は、私たちと同じ目線に立ち、私たちを相応しく執り成し、救うために、この世に来てくださいました。この恵みを心に刻みつつ、心からクリスマスを喜び祝いたいと思います。

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