キリスト者から見た『家政婦のミタ』①

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聖書の言葉

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。

新約聖書 ヨハネの手紙一 4章18節

藤井真によるメッセージ

2011年の秋から冬にかけて「家政婦のミタ」というテレビドラマが放映されました。このドラマは女優の松嶋菜々子さん演じる家政婦の三田灯(みた・あかり)という主人公が、阿須田家という母親を失ったばかりの一家に派遣され、そこで起こるいろいろな出来事を描いています。

家政婦ですから、主人から命じられたことは「承知しました」と言って、基本的に何でもするのです。しかも命令であるならば、誰かを傷つけることさえも、やりかねない危険性を持っていました。

しかし、不思議なことに、このミタを通してバラバラだった家族がだんだんと一つになっていきます。どうしてでしょう。私の推測ですが、阿須田家の人々は、ミタが何でもお願いしたことを聞いてくれることをいいことに、無茶なことをどんどんお願いしていきます。ミタは、それは、いけないことだと止めることなく、命じられたことをそのまま行動に移していくことに理由があるのだと思います。

命令した主人の願いというのは、本人の好き勝手な願いや欲望の表われでもあります。主人の願いが実現すると、当然そこには恐ろしいことが起こります。家族の中に隠されていた問題が露わにされていきます。人間の欲望や罪によって表れ出てくる悲惨を目の前にして、阿須田家一人ひとりは、それらの問題と真剣に向き合うようになっていったのです。そして、気づいたら阿須田家は一つになっていたのです。

阿須田家の人たちは、次に自分たちを変えてくれたミタさんに関心を持ち始めます。その一つはなぜ、ミタさんは笑わないのかということです。笑わないのには、きっと理由があるに違いないと考えるようになりました。

何でも「承知しました」という彼女ですが、「笑え」と命じてもそれだけはできないといつも答えていたのです。ミタは、その理由をなかなか語りたがりませんでしたが、あるときついに、自分の壮絶な過去を告げ、笑うことができなくなった理由を語り出すのです。

悲しみを抱えた阿須田家に遣わされたミタもまた、深い喪失感を経験していたのでした。そして、このドラマのメッセージの一つは、私たち、大きな悲しみの後、その事実とどう向き合い、先に進んでいくのかということです。

「家政婦のミタ」の脚本家である遊川和彦さんは、ミタ誕生の理由について、当初は何でもできるスーパー家政婦を描きたかったようです。しかし、昨年の3月に起きた東日本大震災を経験して、考え方を変えたというのです。誰もが経験する悲しみ、喪失感とどう向かい合ったらよいのか。その時、「幸せそうな人が『頑張ろうよ』とか『大丈夫ですよ』と言っても説得力を持たないのではないか。そうでなくて、深い悲しみを持った人が、あなたたちの悲しみはどんなに私たちが言ったって癒すことができません、と言った方が説得力がある。要するに誰でもいずれは親を失うし、家族を失う。そのときにあなたはどうするのかというのは、失った人からでないと素直に聞けない。」そのように遊川さんは言うのです。

ミタ自身も深い喪失感を経験したひとりとして、そのことに向き合いました。そして、自分自身が経験した悲しみをとおしてあることに気づいたのです。それは、自分はもう「意思を持ってはいけない」のだということです。

意思を持たないというのは、人を愛してもいけません。感情も表に出してはいけないのです。当然、笑ってもいけません。なぜなら、自分がこうしようと思って行動すると、周りの人間、特に愛する者たちが不幸になっていくからです。だから、自分は一生涯、ロボットのように誰かから命じられたことをしていればいい。それが、私の生き方だとミタは信じていました。

しかし、意思を持たないという仕方で悲しみを乗り越えることができるのでしょうか。そうではないと思うのです。事実、意思を持つことを拒み続けたミタは、自分のことを幸せなどとは思ってはいないのです。意思を持たなければ、余計なことをしなければ、周りは幸せになるかもしれません。不思議なことに、ミタによって阿須田家の人たちは確かに幸せになりました。

でも問題はここからです。彼女が不幸なことは、他者の幸せを「共有」できないことです。一つになった阿須田家はミタとその幸せを分かち合おうとしました。私たちの家族になってほしいとさえ言いました。しかし、ミタは拒否しました。私は家政婦であって、あなたがたの家族ではないと。

でも本当は阿須田家の人たちとは食事を共にし、彼らを心から愛したかったのです。愛を分ち合いたかったのです。でもそれを断ってしまった。人はよく「相手が幸せになるなら、私は不幸になっていい」と言いますが、本当でしょうか。ミタを見ながらそんなことを思わされました。「あなたの幸せが私の幸せ」というように、幸せは互いに分かち合ってこそ本当の幸せだと思うのです。

ミタも阿須田家の人たちが大好きでした。愛することが好きでした。でも自分がその人を愛するとまた不幸にしてしまうのではないかというこという恐れに捕われるのです。そして失敗を繰り返すうちに、私は何もしないほうがいい。私は愛に生きるに値しないと思ってしまいす。あるいは誰かから愛される資格もないと自分の方でも扉を閉じてしまうこともあるでしょう。そして最後には、私なんか存在しない方がいいと思い込んでしまうのです。

そうやって、人が愛する意思を持たなくなったとき、人間は本当の人間ではなくなっていくのです。そして、これは家政婦のミタだけの話ではないと思うのです。私たちもよく知っているのではないでしょうか。「愛には恐れがある」ということを。

しかし聖書は言うのです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」と。いったいどういうことでしょうか。この「愛」というのは、人間が抱く愛ではありません。不安になり、恐れに囚われ、愛する意思を捨ててしまうような不確かなものではありません。そうではなくて、「愛」というのは、「神さま」の愛です。神さまご自身が愛なのです(ヨハネの手紙一4:16)。

私たちが愛する生き方を回復することができるようになるために、神がまず私たちを愛してくださいました。そのことによって、私たちも愛に生きることが可能になると聖書は語ります(同4:19)。

そして、神の愛というのは、具体的に言うと、神があなたのために共にいてくださるということです。そのために、あなたのところにまで主イエスが来てくださったのです。主イエスが、愛に恐れを抱く私たちの悲しみを、罪を、ご自分の身に担ってくださいました。愛することは多くの労苦や心配を伴います。でもそこに、「愛することは恐くない。大丈夫だ」と言ってくださる主イエスがそばにおられるのです。

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