あなたは何をしてほしいのか

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聖書の言葉

イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。

新約聖書 マルコによる福音書 10章51節

山中恵一によるメッセージ

聖書には、数多くの、不思議な癒しの話があります。その中のひとつに、目の不自由な男がイエス様に癒される、という話があります。男の名前はバルティマイといいました。彼は生計を立てることができず、道端で、物乞いをしながら暮らしていました。

あるとき、イエス様がバルティマイの座っていた道を通られました。彼は、イエス様が色々な町や村で病人を癒されたという話を聞いていたのでしょう。「そのような力を持っているイエスという人は救い主に違いない」彼は伝え聞く噂話をとおしてイエス様を信じました。バルティマイの心は非常にシンプルです。彼は思いました。「それならば、私も何とかして頂きたい。この方にお願いしてみよう!」

ところが、道は大勢の人で賑わっています。イエス様がどこにいるのだかわかったものではありません。彼は叫びました。「ダビデの子イエスよ!」これは、救い主イエス様!という呼びかけです。「ダビデの子イエスよ!私を憐れんでください!あなたの心を私に留めてください!」大声にびっくりしたのでしょうか。周りの人達は、困った奴だと、バルティマイを叱り飛ばしました。しかし、バルティマイはやめません。彼はさっき以上に叫び続けました。「ダビデの子よ!私に心を留めてください!」

イエス様はその声を聞き、バルティマイを呼んでくるよう、周りの人達に言いつけます。バルティマイは喜び踊ってイエス様の前へとやってきました。イエス様は男に尋ねました。「何をしてほしいのか?」男は「目が見えるようになりたいのです」とイエス様に願います。イエス様は、忌憚なく自分の願いを打ち明けるこの男のうちに、救い主を信じる信仰を見られました。「あなたの信仰があなたを救った」イエス様がこのように言われると、彼の目はイエス様の不思議な力によって、すぐに見えるようになりました。

と、まあ、このような話なのですが、高校生くらいの頃、この話を聞いて、なんだか不思議な印象を持ったのを覚えています。癒しの奇跡自体、不思議なことです。しかし「イエス様が神様なのであれば、不可能も可能となるだろう」と別段、不思議さは感じませんでした。妙だなぁと思ったのは、もっと違ったことでした。これまで数々の癒しをなされてきたイエス様です。そのイエス様のもとに、わざわざ目の不自由な男がやってくる。聞くまでもなく、目を治して欲しいに決まっています。しかし、イエス様はあえて、面と向かって尋ねるのです。「何をしてほしいのか?」このイエス様の対応にひっかかる思いがしました。「イエス様が神様の力を持っているなら、聞く前からわかるだろうに。なんで、わざわざ、イエス様はこんな質問をするんだろう。」こんな疑問を覚えました。

今になってよくよくイエス様の思いに心を向けてみますと、「あえて尋ねるイエス様の対応にこそ、イエス様らしさのようなものがあるなぁ」と気付かされます。「イエス様はただ、相手の体がよくなればよい、とは思われなかったのだなぁ。イエス様は彼と個人的に言葉を交わしたかったのだろうなぁ。イエス様は、面と向かって心と心のやりとりを通して、人を助けようとされる御方なのだなぁ。」

苦難の中にいる人が願いを抱えていることを知った上で、あえて「あなたは、私にどうしてほしいんだ?」と尋ねる御方、それがイエス様というお方なんですね。イエス様はわかっていて聞かれます。御自分に対して、人が思いを吐き出してくれることを望まれます。人はただ、悩み事の解決を求めてイエス様のもとに来るのですけど、イエス様のほうはそれだけで満足されません。人の抱える悩みを通して、心と心が通い合うことを求められるんですね。

バルティマイは目の見えない毎日の中で、イエス様の噂話を頼りにイエス様のもとに来ました。そして、イエス様から語りかけられる声に望みをかけました。ラジオで聖書の話を聞く、ということも、どこか似たところがあるかもしれません。

ラジオの向こう側にいるみなさん。少しの間、目を閉じてみてください。あなたのそばにイエス様は確かにいてくださいます。そして、この日、聖書を通して、あなたに向かって、「何をしてほしいのか」こう尋ねてくださいます。どうぞ、救いが必要と思うその悩みをイエス様に向かって投げだして頂きたいと思います。多くの人々を助けてきたというイエス様の噂話を頼りに、心の叫びをもって呼びかけてみてください。どうぞ、憐れみが必要と思うその苦しみをイエス様に打ち明けてください。イエス様は、御自分を信じて投げ掛けられる、あなたの声に必ず、応えてくださいます。

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