希望の星はあなたの上に

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聖書の言葉

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

新約聖書 マタイによる福音書 2章9~10節

藤井真によるメッセージ

少し前のことになりますが、兵庫県神戸市にあります六甲山で、全国各地から牧師が集まって、数日間、研修の時を持ったことがありました。その時は、11月の終わりでずいぶん寒かったのですけれども、山の上から見る星がとても綺麗だったのが印象的でした。しばらく美しい夜空を見上げていますと、九州から来ていました牧師が、「堺では星が綺麗に見えますか」と尋ねてきたのです。私が住んでいる所は、大阪府の堺市の中心部です。人口84万人の都会の町です。また堺の町は、昔から工業が盛んな町でありまして、海沿いにはたくさんの大きな工場が建ち並んでいるのです。ただ、それだけに正直なところ、空気が済み渡っているとは言えないところがあります。残念ではありますがいた仕方ないことだと思います。

このことは堺の町だけのことではないでしょう。一般的に都会と呼ばれている場所は、町のあかり、空気のよごれなどで、星が見えないと言われています。私はずっと田舎で育ってきましたから、噂を疑うことなく、都会で星は見えないと思い込んでいたのです。その時は、堺に引っ越してきてずいぶん経っていましたけれども、それまでに夜空を見上げて星を見ようなどとは一度も思ったことがなかったのです。だから、「あなたが住んでいるところに星が見えますか」と問われた時に、即答で、「いいえ、見えません」と答えたのです。

それからしばらくしたある晩、散歩していたときに、ふと夜空を見上げてみますと、驚くことに綺麗な星が散りばめられていたのです。ずっと星など見えるはずがないと思い込んでいただけに、「ああ、この町でも星が見えるんだ」と嬉しくなったのです。しかもその時、自然に囲まれた場所でもめったに見ることができない流れ星を、二つも同時に見ることができました。たいへん感激しながら家路についたことをよく覚えています。そして、「星は見えますか」と聞かれて、「見えません」と言ってしまったことは、とんでもない間違いだったの思ったのです。

何気ないことかもしれませんけれども、私たちも、もしかすると、「こんなところに星など見えるはずはない」。あるいは星に象徴される「光」など私の上に輝いていない。私の上に「希望の光」など輝いていない。そう思い込んでいることころが少なからずあるのではないかと思わされたのです。本当は希望の光が私の上に輝いているにもかかわらず、私たちの目は闇を見ることに慣れてしまい、光を見ることを忘れてしまっている。いや、私の人生に光が射し込むはずがないと諦めてしまっているのです。確かに、私たちの歩みの中には、将来を見渡すことができないほどの暗い現実に突然取り囲まれることがあります。どこを見渡して見ても星など見えない、喜びなど見出すことができないほどの悲惨を経験することがあるのです。しかし、それでも私の上に広がっている夜空に星が輝くように、神さまのご栄光はあなたの上にいつも輝いているのです。

先週は、ちょうど12月25日(日)、イエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマスでした。私たちの国では、どうもクリスマスが終わるとお正月の準備に向けて慌ただしくなります。まるでクリスマスの喜びはどこに行ってしまったのか、と悲しくなることがあります。でも本当はそうではありません。クリスマスの祝いはまだ始まったばかりなのです。

クリスマスによく聞く聖書物語の中に、「東方の博士たち」、あるいは「占星術の学者たち」と呼ばれる物語が記されています(マタイ2:1~12)。2千年前の東方の占星術の学者たちは、夜空に輝く星を眺めていました。占星術というのは、今日で言えば、「星占い」に近いものです。当時とはかたちは変わっているでしょうけれども、占いと呼ばれるものが、今日も流行っています。

新しい年を迎えると、皆がおみくじを引いて、今年の運勢はどうなるのかと誰もが気にします。人は自分の将来について不安な部分をたくさん抱えているからです。だから、「あなたの今年の運勢はこうだよ。」「こういういいことがあるよ。」「ここはちょっとまずいから気を付けなさい。」と教えてもらう。そうすると妙に安心してしまうところが、昔も今も人間の心の中にはあると思うのです。

でも、聖書が語る希望はそのような一時しのぎの気休めではありません。生きている時も、死ぬ時も、どのような時も変わることなくあなたを照らして、生きるべき道を示してくれる希望の光なのです。なぜなら救い主の誕生を示す星は、幼子イエス・キリストが飼い葉桶で眠っておられる馬小屋の上で止まったからなのです。馬小屋や飼い葉桶という誰もそこに住みたくないような場所に星は止まったのです。

そもそも、主イエスがなぜ馬小屋で生まれなければいけなかったのかと言いますと、それは誰も主イエスを宿に泊めてくれる人がいなかったからですね。「どうぞここにお泊まりください」と言って、主イエスをお腹に宿したマリアやヨセフたちを愛をもって迎え入れてくれさえすれば、主イエスは汚くて真っ暗なところに追いやられることはなかったことでしょう(ルカ2:7)。

しかし、不思議なことに愛の欠けた場所、人間の罪の闇で包まれた場所に、主イエスは生まれてくださったのです。なぜ私はここに、こんなところに居なければいけないのかと、自分を取り囲む辛く厳しい状況の只中にこそ、神さまは確かにいてくださるのです。夜空の星が示したのはこの恵みの事実なのです。

今日から新しい一年が始まりました。この一年も、神さまの希望の光が、皆様の一歩一歩を明るく照らし出してくださいますように。祝福をお祈りします。

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