大きい信仰

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聖書の言葉

女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

新約聖書 マタイによる福音書 15章27~28節

藤井真によるメッセージ

イエスさまは、ひとりの婦人に向かって「あなたの信仰は立派だ」と仰いました。「立派だ」というのは「大きい」という意味です。イエスさまは「あなたの信仰は大きい」とお褒めになったのです。私たちは自分の信仰を見つめるとき、どちらかと言うと「信仰生活を長い間、続けているけれど、自分の信仰は小さいなぁ」と思ったり、あるいは、神さまを信じたいという思いはあるのだけれどなかなかその一歩が踏み出せないでいる。そのように自分の信仰の弱さや、小ささばかりが気になってしまうかもしれません。けれども、イエスさまは、自分の信仰の小ささにうずくまりやすいひとりひとりを、大きな信仰へと解き放ってくださるのです。・・・

今朝の御言葉の中には、カナンに住む女性とイエスさまの対話が記されています。この女性は、自分の娘が悪霊に取りつかれ、病で苦しんでいます。自分の娘の苦しみを、我が苦しみとして背負い続けてきた女性です。そこにイエスというお方がやって来るという噂をどこかで聞いたのでしょう。すぐにこの女性もイエスさまの前に出てきて、「自分の娘を助けてほしい」「憐れんでください」と繰り返しお願いするのです。

イエスさまはこの女性の願いをどのように受け止められたのでしょうか。普通でしたら、女性の前で足を止め、願いに耳を傾け、助け出してくださる。それが、聖書が語るイエスさまのお姿でしょう。イエスさまは、憐れみ深い方であり、愛のあるお方である。それが多くの人々の心の中にあるイエスさまのお姿です。事実イエスさまは、分け隔てなく、助けを求める人たちに手を差し伸べてくださったのです。助けてくださいと、叫んで助けてもらえなかった人はいないのです。だから、周りから見捨てられていた、罪人たちや病の中、貧しさの中にある者たちも、神さまの救いにあずかることができたのです。そのようなイエスさまのお姿が福音書の中には何度も記されています。

しかし、今朝の御言葉は、私たちが抱いているイエスさまのお姿とはどうも違うようです。女性の願いをまるで無視するかのように、前に進んで行かれます。それでも、付いていって、憐れみを求めるのですが、イエスさまは「わたしはあなたのところに遣わされていない」と仰います。さらには、このようなことまでも仰ったのです。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」

神さまの救いのご計画は、まず選びの民であるイスラエルを救い出すことでした。ですから、イエスさまは神さまの御心に従い、ここに出てくる異邦人であるカナンの女性の願いを断固として拒否なさったのです。そして、異邦人のことを「小犬」とさえ言ったのです。私たちは「犬」と呼ばれることは決して嬉しいことではありません。少しでも自尊心のある方でしたら、「犬」と呼ばれることに腹を立て、その場を立ち去ってしまってもおかしくないでしょう。私たちはここに出てくる主のお姿を見てとまどいを覚えてしまうのです。福音書に記されている主イエスは、助けを求める者に対していつも救いの御手を差し伸べてくださる方だからです。

しかし、カナンの女性は、イエスさまのもとから離れることなく助けを求めたのです。その時に「それでも神さまですか」「それでも愛の人ですか」というようなことは一言も言いませんでした。その代わりに「主よ、ごもっともです」と言いました。驚くことに、彼女は「犬」と呼ばれて、「はい、主よ」とそのまま受け入れたのです。なぜ、カナンの女性はイエスさまの言葉を受け入れることができたのでしょうか。それは、イエスさまの言葉の中に希望を見出すことができたからなのです。たとえ神が私を拒否されても、主が御心を貫いたときに、私の希望もあるのだと信じたからです。私たちの希望は、自分の願いが実現することではなく、神さまが神さまでいてくださり、神の願いが実現することの中にあるのです。そのことを信じて生きることが、大きい信仰に生きるということなのです。

カナンの女性は、自分が「小犬」と呼ばれたことに希望を見出しました。「小犬」とは小さな犬のことではなく、家で飼われている犬のことです。小犬は、主人の子どものように豪華な食事を口にすることはできませんが、そのおこぼれを貰って主人に養っていただける存在です。たとえ自分が犬だとしても、主人の家の中で十分に生きていけるのです。それほどに神の恵みは豊かなのです。「イエスさま。恵み深いあなたは、犬のような私たちを、家から追い出そうとはなさいませんね」と、女性はユーモアを込めて、イエスさまに申し出るのです。イエスさまは女性の言葉を聞いて、「あなたの信仰は立派だ」「あなたの信仰は大きい」、そう言って喜んでくださり、願いを聞いてくださいました。

イエスさまは、このあと十字架に向かう旅を続けられます。十字架で起こったことは、何でしょうか。それは、神さまに裁かれ、見捨てられるという経験でした。それが神さまの御心でした。しかし、この一見、理解しがたい神さまの御心と愛を、キリスト者たちは受け入れて喜んでいます。十字架の中に、神さまの溢れるばかりの愛があることに気付くことができたからです。そして神さまの恵みは、イスラエルだけではなく、異邦人である私たちのところに、まで溢れ出て来ているのです。この溢れるばかりの神さまの御心と希望にすべてを託し、この週も大きな信仰をもって歩んでいきましょう。

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