転車台の上に

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聖書の言葉

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 12章1~2節

藤井真によるメッセージ

私は3歳頃まで、電車が通る線路の近くに住んでいました。しかも、そこには電車が集まる車庫とまでは言わないものの、電車が何両も止まっていて、よく眺めに行っていたことを、昔ながらに覚えています。そのせいでしょうか、幼い頃から電車が好きで、両親に電車のオモチャや図鑑をたくさん買ってもらっていました。もちろん大きくなったら、電車の運転手になりたいと思っていました。

ところで、この放送をお聞きの皆さまは、「転車台」というものをご存じでしょうか。「車」を「転」がす「台」と書いて「転車台」と言います。転車台はターンテーブルのようなものでその上に、車両を乗せて回転させて、車両の向きを進行方向に向けるために用いられます。普通は蒸気機関車の方向転換に用いるものとして知られていて、蒸気機関車の全盛期には各地の車両基地や起点・終点となる駅に必ず設けられていたようです。今日の電車は、方向転換が必要ないために、ほとんど見かけることはなくなりました。私も実際に見たことはなかったのですが、今年の4月に徳島に行った際に、たまたま転車台を見つけることができました。これは珍しいと、思わず写真を撮ってしまいました。

転車台を見ながら、ある牧師が語っていたこんな言葉をふと思い出しました。

「イエス・キリストはわれわれにとって、転車台のようなものです。」

この言葉を聞いて、「なるほどなぁ~」と思わされて、その時、以来、ずっと覚えていたのです。蒸気機関車というのは、自分で方向を転換することはできません。いったん前に進むと、後ろに戻ることはできないのです。目的地の駅に到着したら、その先は行き止まりです。電車ですと、一番後ろの車両が、一番前の車両に変わって、来た道を戻ることができでしょう。でも、蒸気機関車の一番後ろの車両は、ただの車両ですから前に進む原動力というのはまったくないのです。いくら燃料を積んでいようとも、見た目が格好良くても、行くところまで行ったら、もう先に進むことはできない虚しさしか待っていないのです。

人間を機関車に譬えるのも変かもしれませんが、私たち人間も、目指していたゴールにやっとのことで到着することができたものの、その先、どう進むべきか分からず右往左往してしまい、虚しさに捕らわれてしまうことも決して少なくないのではないでしょうか。

もう一度、人生をやり直してみたい。元来た道をもう一度戻ってやり直してみたいと思っても、自分の力では戻ることができないのです。

蒸気機関車が、自分で方向転換して次に進むべき方向に向くことができないように、人間は、いったん神さまを忘れて生き始めてしまうと、再び向きを変えて神さまの方を目指して生きて行くことが出来なくなるのです。

ではどうしたら、元に戻ることができるのでしょうか。それは、転車台の上に乗ることによって可能になります。転車台の上に乗った蒸気機関車は、再び向きを変えて来た道を引き返すことができます。同じように、どのように生きていけばよいのか分からなくなった時、進むべき場所を見出すことが出来なくなった時、私たちは自分を転車台の上に乗せればよいのです。

そして、もう一度、私たちを本来生きるべき方向へと変えてくださるお方こそ、「イエス・キリスト」なのです。自分をキリストの上に乗せたのならば、もう私たちは自分のために生きる必要はありません。

私たちが自分の人生に行き詰ってしまうのは、自分の好きなように生きようとするからなのではないでしょうか。自分の人生なのだから、自分のために生きることこそ、いちばん自分らしい姿なのだと信じたいのです。けれども、実際はそうではない。人間の生き甲斐というのは、自分の夢を適えること、そのために努力することだと言われることがよくあります。確かに自分のために一所懸命になることはよいことですし、頑張って夢を実現した人をこの世は称賛します。

反対に、一所懸命努力しても、自分の夢を実現できずに挫折してしまうという経験をする人もたくさんいると思うのです。そうすると、志し半ばに夢を諦めざるを得なかった人たちは、自分はダメな人間だと自分で自分を評価してしまうことにもなりかねません。

求めること、捜し続けることは大事なことです。主イエスも、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(ルカ11:9)でも、本当に大事なことは、門を開いてくださるのは、主イエスご自身なのだということです。そこに生きる目的を与えてくださるのは、主イエス・キリストです。このキリストの上に、自分を乗せるならば、人は本来進むべき道を見出すことができます。目の前の大きな壁を前にして、行き止まりになってしまっても、もう一度向きを変えて、歩み出すことができるのです。

また転車台であるイエス・キリストの上に自分を乗せるということは、キリストが私の人生を下から支えてくださるということです。私の下から支え、犠牲になってくださるということです。私たちの人生の向きを正しく直してくださるために、キリストは十字架で犠牲になってくださり、命を献げてくださいました。

だから、今日の御言葉の中にありましたように、パウロという牧師は、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」「神さまのために自分の人生を献げなさい」と勧めているのです。そこにだけ人間の生き甲斐があるからです。

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