たった一つの願い

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聖書の言葉

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう

命のある限り、主の家に宿り

主を仰ぎ望んで 喜びを得

その宮で朝を迎えることを

旧約聖書 詩編 27編4節

藤井真によるメッセージ

私がクリスチャンになったのは、今から14年前のクリスマスの日でした。その時に、記念として教会から聖書をいただきました。それ以来、大事に使っていた聖書ですが、年数がたつにつれ、だんだんと古くなり、表紙はボロボロになったり、ページがはがれたり、破れたり、時にはペットの猫にかじられたりと、色々大変だったのですが、聖書本文は無事に保たれていました。ボロボロになりながらもその聖書を使い続けていました。しかし、今年の4月に行われましたイースターの礼拝の前、聖書を開いて見ていましたら、ページの端っこが破れていることに気付きました。これはどう考えても、修復は不可能だなと思って諦めることにしました。愛着があっただけに、残念ではありますが、こればかりは仕方ありません。

ところで、クリスチャンになった時にいただいた聖書には、教会の牧師から私に向けた短い言葉が記されていました。言葉と言っても、それは聖書の言葉で、最初にお読みした詩編27編4節の御言葉です。それ以来ずっと私の心にあった御言葉のひとつです。

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう

詩編の詩人は、たったひとつのこと。それだけを願い求めたらいいというのです。神さまにお願いすることは、「たったひとつ」だけなのです。でもよく考えてみますと、私たちには適えてほしい願いや、聞いてほしい願いは、ひとつどころか、たくさんあると思うのです。自分の願いだけが適えば、他はどうなってもいいというのでは困りますけれども、願いをたくさん持って生きること自体は決してわるいことだとは思いません。

なぜ私たちの心の中に願いがたくさん生れるのでしょうか。それは、自分のことだけではなく、愛する家族のことをはじめ、共に生きる人たちのことが、いつも気にかかるからだと思うのです。そうやって心の視野を広げていけば、私たちの中にある願いというのは山ほどあると思うのです。願いが多く持つ人間は、わがままな人間だとか、欲の塊だと非難されることもありますけれども、逆に願いが少ない人間というのも能天気だとか、向上心がないと言われることもあると思うのです。

そうしますと、願いが多い少ないという「数」や「量」の問題ではなくて、何を願って生きるのかという「質」の問題が問われてくると思うのです。詩人の願いはこうです。

命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを

詩人の願いはたったひとつ。神殿で神さまを礼拝し、神さまが私の人生の真ん中にいてくださる喜びを覚えることです。私がクリスチャンになった時のお祝いの言葉として、なぜこの詩編の言葉を選んでくださったのか。その真意は聞いたことがないので分かりません。けれども、推測することはできます。先生は、信仰生活の中で、日曜日の礼拝をいちばん大事にしてほしいと願われたからだと思うのです。当時、私は高校生で、部活動もしていたので、日曜日が疎かになることを心配してくださったのでしょう。それに将来、進学や就職をしたとき、教会から離れてしまうことをも心配してくださったのだと思います。

幸いにして、高校生の時も、大学時代も、ほぼ日曜日は休むことなく、教会に通い続けることができました。聖書に記された言葉は、14年前に記されて、それで終わってしまったというのではないと思います。教会の牧師をはじめ多くの人の祈りによって、息を吹き返したのだと思います。「この人が、ひとつのことを主に願い、それだけを求めることができますように」と。

そして今、牧師に導かれて、今日もこうしてお話をすることが許されています。牧師だから当たり前なのですが、毎週日曜日の朝は教会にいます。でもこのことは、「当たり前」なことなのではなくて、神がなさった大きな奇跡だと信じています。

牧師というのは、嫌なこと、悲しいことがあっても、教会に行かなければいけません。しかも、毎週日曜日ごとに、神の言葉に仕える働きに召されています。ちょっと今日は気分が悪いからとか、先週、辛いことがあったら、御言葉を語れませんというのではないのです。まさにそういうところで、神さまからの語りかけの言葉を聴ことのできる恵みをいただいています。

今年のイースターの朝、大事にしていた聖書は破れてしまって少し落ち込みましたけれども、それ以上に、私がクリスチャンになったその一歩目に与えられた、御言葉が私の中で実現していることに改めて気付かされ嬉しく思いました。

ひとつのことだけを神さまに求めようと、詩人は私たちに呼び掛けています。でも、詩人だけではなく、神さまこそが、私たちに願っていてくださる「たったひとつ」のことがあるのです。私たちが神さまの家族として、神さまの家に留まり、そこで喜びを得ること、それだけを神さまは私たちに願っていてくださるのです。私たちの人生には、大事にしていた色んなものや、大切な関係が破れてしまうという辛い経験をすることがあります。でもそんな破れを抱えながら、神さまの前に立つ時、必ず神さまはそれらの破れを覆う喜びで包んでくださいます。

ところで、今年のイースターはもうひとつの喜びがありました。それはしばらく教会を離れていた御夫妻が、もう一度、教会員として加わってくださり、新たに信仰生活を始めてくださったことです。たったひとつ、主の家である教会に集って、喜びで満たされる。そんな喜びから始まる一週間の積み重ねこそが、神さまがすべての人に望んでいる願いです。この願いの中にその御夫妻も招かれたのです。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」この御言葉が、放送をお聞きのすべての方にとって、真実なものとなりますように!

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