母の胎にある前から

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聖書の言葉

わたしはあなたを母の胎内に造る前から

あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に

わたしはあなたを聖別し

諸国民の預言者として立てた。

旧約聖書 エレミヤ書 1章5節

藤井真によるメッセージ

私は今年の秋でちょうど30歳になります。毎日、毎年が、神さまから与えられた特別な時ですけれども、今年は30年目の節目を迎えるということで、何か特別な思いを抱きながら日々過ごしています。

今朝は、私が生まれた頃の様子をお話したいと思います。私は幼い頃からよく母親に「あなたは難産で生まれるのがたいへんだったのよ」と、事あるごとに言われ続けてきました。この世界に生まれて来るのがよっぽど嫌だったのか、なかなか外に出て来ることがなったようです。それで、最後には、機械を頭につけて、引っ張ってきて、やっとのことで生まれてきたのだというのです。今でも、その時の機械の傷が頭に残っています。(吸引分娩)

そういうことを子どもの頃から聞かされていますと、子どもなりに、僅かばかりではありますが、母親が出産の時に抱いていた不安な思いを伺い知ることができます。子どもはいつも親を不安にさせるものですが、最初からそういう心配をさせてしまったことを、申し訳なく思いました。それと同時に、自分に与えられたいのちの神秘さ、また神さまが与えてくださったいのちの尊さについて、子どもなりに考えさせられたのです。自分が知らないところで、何かすごいことが起こっていたのだということを深く感じていたのです。

私の母はクリスチャンです。出産にあたり、教会のたくさんの方が、神さまに祈ってくださったことも聞きました。もちろん、私の母親も祈っていたことでしょう。そして、出産の時にも、ベッドの上で祈ったと言っていました。「無事に生まれてくることができますように」と。

また、これも幼い頃からよく言われ続けていたことですが、母親は、その時、お祈りの中で、神さまとやりとりをしたというのです。神さまとやりとりをすることや、駆け引きするというのは、よくないことだとは思いますが、それもまた人間の正直な姿なのでしょう。

人はいろんな意味で、危機に追い込まれますと、神さまを呼びます。神さまに祈ります。「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」(詩編50:15)という聖書の言葉がありますように、神さまご自身の方が、私たちに対して「祈りなさい」と求めておられるのです。

神さまを信じて生きる者たちは、自分の目から見て、これはもう最悪だ。何でこんなことになるのだと思う中にも、神さまの御心があることを信じて生きています。でも、そのことにすぐに意味を見いだせるわけではありません。また状況が悪くても「これでいいのだ」と変な割り切り方をするのではないのです。要するに、諦めた生き方をするのではないのです。

希望をもって生きるとは、諦めずに神さまに祈り続けるということでもあるのです。だから、今の状況を何とか良くしてほしい、助けてほしいと必死に祈り願うのだと思います。そうやって、神さまと向き合って、葛藤していく中で、神さまのお心とは何であるのかということが、段々と分かってくるのだと思うのです。

母は、なかなか生まれて来ない我が子を前にして、また、子どものいのちの危機を前にして、神さまに何をお願いしたのでしょうか。それは、「神さま、この子を無事に産ませてください。もし産まれましたら、この子を、牧師として献げますから」という祈りをささげました。

神さまに聞いていただき、適えていただきたいことは、「無事に産ませてください」ということです。でも、心のどこかでそう簡単にはお願いを聞いてくださらない、と思ったのかもしれません。あるいは無事に生まれたからには、この子の生涯が、本当に神さまにお献げしますという、誓いを改めてしたのでしょう。そこで、「この子を牧師にします」と祈ったのです。そして、祈りは聞かれ、私はこの世に生まれてきたのです。

このエピソードを幼い頃から聞いていた私は、奇跡的に生まれてきた自分自身に対して、感動すら覚えていましたが、一方で、心から喜べないところもありました。なぜなら、神さまというお方は、私たちの祈りを聞いてくださるということ信じていたからです。そうしますと、あの時の母親の祈りは、聞かれるということになってしまう…。将来、牧師になりたいなどとは思ってもみませんでしたから、自分の道が既に決められているというのが嫌だったのです。

でも、私のいのちというのは、「無事に産ませてください。生れてきたら、この子を牧師として献げますから」という祈りが聞かれて生まれてきたいのちです。だから、もし私が牧師にならなかったら、自分の人生とはいったい何になるのだと考えたこともありました。と言っても、悩むほど考えたわけではありません。聞いて聞かなかったことにして生きていました。でも、どこかで母親の言葉や神さまは祈りを聞いてくださる方であるということが、心に引っかかっていたのも事実です。

私が、この世に生を受けてから、21年後、ある出来事がきっかけで、牧師になる道を選びました。嫌だと思っていた道を、自ら、しかも喜んで選んだのです。自分で選んだというより、神さまが私を選び、招いてくださったという方が正しいでしょう。

母親に「牧師なることを決めた」と告げますと、少し目を潤ませながら、大きな声で喜んでくださいました。21年後にして聞かれた祈りに喜びを覚えていたのだと思います。

私たちの人生には、自分が知らないところで、色んな人たちばかりでなく、何よりも神さまが働いてくださっています。神さまは「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。」とおっしゃいます。そればかりではなく、あなたがこれからどのような働きにつくか決めていたというのです。

自分の知らないところで、事柄が進んでいくということを、私たちは好みません。でも、そこに神さまというお方が働いてくださるのならば、必ずや、自分の人生に意味を見出すことができる。神さまに知られていてよかったと喜ぶことができる。私はそのことを信じて、これからも生きていきたいのです。

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