いつまでも残るもの

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聖書の言葉

信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 13章13節

藤井真によるメッセージ

キリスト者の医者に、日野原重明さんという方がおられます。今年で100歳というご高齢の中、今も現役の医者として働いておられます。日野原さんは、病院で患者さんと向き合うことが仕事の中心ですけれども、いのちの尊さを全国各地に伝える働きをもしておられます。特に、最近は小学校に行って、小さな子どもたちにお話をする機会が多いそうです。

そこで、子どもたちにまずこう質問をするそうです。

「君たち、いのちを持っているだろう。いのちはどこにあるの」。

子どもたちは「ここにあります」と、胸のあたりを指して答えます。

それで日野原さんは、「これは心臓でね、モーターなんだよ。いのちを支えるのには必要だけれども、ここにいのちがあるわけじゃない。じゃあ、いのちそのものはどこにあると思う?」と問い返すそうです。

日野原さん、いわく、「いのちは目に見えないもの」であり、「いのちとは君が持っていて、君が使うことのできる時間のこと」「君がしたいようにできるもの、それが君が持っているいのちだよ」と教えるそうです。

そうお話すると、子どもたちは、みんなふっと分かったような表情をするそうです。そして、「じゃあ、君らしくいのちを使うとはどういうことなんだろう」という宿題を出して、それぞれ自分のいのちの使い方を考えてもらうそうです。そうしますと、小さな子どもといえど、日頃、自分のためだけに時間を使っていたことを反省して、誰かのために何かしなくてはと感じ始めるそうです。

私たちも、いのちはどこにあるか?と聞かれると、案外答えるのが難しいと思います。大人でも、子どものように胸に手を当てて「ここだ」と言ってみたり、いのちは心の中にあると答えるかもしれません。

でも、本当のいのちは、あなたが使う時間なのだというのです。もっと分かりやすく言えば、私たちの人生そのものです。その人生を何に使ってきたか、何に使うのかということが問われています。

私たちも、よく考えてみると、大抵は時間を自分のために使ってしまっているのかもしれません。人間というのは、自分の願いがすべて適えば幸せになれると思いが潜んでいます。あるいは、自分にとってこれは得であるか。損であるか。そうやって、色んなことを天秤で量るようにして、生きてしまうのです。

また誰かのためと思ってしていることも、愛が欠けていることが少なくありません。聖書には、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、・・・愛がなければ、わたしに何の益もない。」(一コリ13:3)という言葉があります。全財産を誰かのために献げるというのは、これ以上にない行為です。しかし、そこに愛が欠けるということが起こり得るのです。恐ろしいことですけれども、これもまた人間が抱える悲しい事実なのです。

日野原さんも60歳になる前まで、どこかで「有名な医者になりたい。色んな仕事をやりたい」という思いにとらわれていたとおっしゃいます。でもそういう生き方が変わった出来事がありました。それは、1970年、日野原さんが59歳の時に「日航機よど号ハイジャック事件」に遭遇したことでした。日野原さんも人質に取られて、いのちを奪われそうになりました。しかし、幸いにして解放されます。飛行機から降りて、地に足を付けた時、つくづく自分のいのちは与えられたものであることに気付かされ感謝したそうです。そして、この経験をとおして、これまでの自分中心の生き方ではなく、人のためになる生き方をしたいというふうに変えられていきました。

では、人のためになる生き方とはいったいどういう生き方なのでしょうか。最近、日野原さんは、『愛とゆるし』(教文館)という本を出されました。100年間生きてきた日野原さんの最後の関心事は、愛とゆるしなのです。最後のというよりは、生涯そのことと向き合ってきたに違いないと思うのです。今朝お読みした聖書の言葉は、日野原さんが8歳のクリスマスの時に、教会で暗唱して以来、ずっと心に残っていた御言葉だそうです。

日野原さんは、「いのちというのは、自分が使う時間」と言いました。でも、自分が使う時間というのは、いつまでもあるのではなく、必ず終わる時が来ます。地上の人生が終わり、誰もが死を迎えるのです。その時に何が私たちを支えるのでしょうか。日野原は、小さい頃から心に蓄えてきた御言葉である「愛」が響き続けてきました。最期に愛する者がいるということ。あるいは、自分は愛されているということ。その中で死を迎えることができたら本当に幸いです。

しかし、その時に、同時に思わされるのは、感謝したいのに上手く言い表せない自分の弱さや、愛したいのにそれができない自分の惨めさなのではないでしょうか。あるいは、人生を振り返る時、色んな人との出会いを思い起こすことでしょう。いい出会いもあれば、そうでないこともあった。できるならば、消し去りたい過去もあることでしょう。でも自分では消せません。自分の中にある弱さ、惨めさ、憎しみは決して消えることはありません。最後は「愛」と言うけれども、本当はそうはいかない。それが人間の本音です。だから日野原さんは、「愛」を語る時、どうしても「ゆるし」という問題を無視することはできなかったのです。

いやそれ以上に、神さまご自身が、無視することはできなかったのです。「どうせ愛なんて」と諦め果ててしまう人間の本音がこの世を支配するのではありません。この世に来てくださった主イエスは、そういった私たちの罪の中を歩み、私たちの罪を背負って十字架の上で死んでくださいました。私たちの思いは、もう十字架の上で滅んだのです。そして、神さまが与えてくださる本当の愛の中に、復活の希望の中に生きることができる。主イエスは、この世での最期を迎える時も、一緒にいてくださるお方です。また、自分で自分を責める続ける罪を残していたとしても、キリストが父なる神の前に執り成してくださり、「あなたは赦されている」と宣言してくださいます。信仰と希望と愛、この三つは最後まで残る。この御言葉は真実なのです。

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