あなたにとって生きるとは?

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聖書の言葉

わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 1章21節

宮﨑契一によるメッセージ

皆さんにとって、生きるとはどういうことでしょうか。私たちが生きるという時に、そこには本当にいろいろな、その人自身の生き方や生活があります。生きるということは、本当に人それぞれのことでもあります。しかし、結局はそのことを全て含めて考えてみると、生きるとは自分だ、ということになるのではないでしょうか。

例えば、様々な仕事をする時、学校にいる時、あるいは病院や家庭で毎日を過ごすことがあっても、その時に生きるというのは自分が生きているということ、このように私たちは生きているのだと思うのです。そのように、私たちは生まれた時からこれまでずっと生きてきたのだと思います。自分が生きる、私が生きる、このことをいつも考えて、これまでのそれぞれの人生を歩んできたのだと思うのです。

しかし、今お読みしました聖書の中には、そういう生き方とは全く違う生き方をしたパウロという人が出て来ます。この人は、もう自分が生きるということを、ここで熱心に求めているのではありません。キリストが、と言うのです。

このパウロも、かつては自分が生きるということを熱心に追い求めていた人でした。それは聖書の中で、彼が、非のうちどころがなかった、と振り返るほど徹底したものでした。そのようには彼は、当時のユダヤ社会の中でユダヤ教の生き方に徹し、キリストの教会を徹底的に迫害しようとしました。そして、それはある意味で、当時自分の周りにいた人たちを押しのけてでも自分が生きようとした、そういう生きることでもありました。結局は、生きるとは自分ということであったと思うのです。そして、それは本当に救いのない歩みでした。自分が生きるということだったのです。

そのパウロが、ここでは生きるとはキリストである、と言います。キリストそのものだと、それほどに言うのです。そのように生きるとはキリストということは、彼にとってはもはや死ぬことさえも利益になりました。それは、死んでこの世を去れば、神様のおられる天でキリストと共にいることができるからです。そのように、生きることもそうですし、死ぬことを考えても、彼にとってキリストが全てになりました。

ですから、彼は自分自身が熱心に徹底してこれまで築き上げてきた人生、自分が生きる人生にもはや戻ろうとはしません。聖書の中でそれらを、塵あくただ、とまで言っています。それは、キリストが彼にとっての全てになったからです。そのキリストが、塵あくただと彼に言わせるのです。パウロは聖書の中で「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」と言いました。

しかし、なぜパウロは、これほど生きることがキリストになったのでしょうか。何がすばらしいのでしょうか。それは、一言で言えばパウロがキリストによって救われたからです。自分が生きるということには、何の救いもなかった。しかし、キリストの救いがパウロを、生きるとはキリスト、ということに押し出しています。生きるとはキリスト、そのキリストは十字架の死と復活のキリストです。キリストは十字架上で死なれましたけれども、そこから復活をなさいました。キリストは、そのように死をも乗り越えられました。そのキリストにパウロは生かされ、支えられています。このキリストにあって、死ぬことさえも利益だと喜んでいるのです。

パウロ自身、かつてはキリストに見向きもしない者でした。それどころか、神の教会を徹底的に破壊しようとしていた。つまり、パウロは最もキリストに救われることのないようにも見える人でした。しかし、そのキリストを迫害していたようなパウロをも、神様は救われます。そのような罪を犯し続けたパウロにも、その罪のため十字架で苦しまれ、復活をなさった、キリストの本当のお姿が示されました。パウロは、このキリストによって自分のあれほどの罪も赦されている、生きることが許されている。これまで罪にまみれて生きてきた自分が贖われ、全くキリストのものとされている。ただ、そのことを喜んで、そのことに生かされています。そして、それは、生きるとはキリスト、という決定的な救いでした。

私たちは、普段生活をする中で、自分が罪人だということはあまり考えないかもしれません。パウロのように教会を目に見える形で破壊しようとするのではないかもしれませんし、自分が死ぬべき罪人だということを考えないかもしれないのです。しかし、聖書が語っていることは、全ての人に罪があって、キリストに救われなければならないということです。生きるとはキリスト、パウロのように、全ての人がこのように生きることへと神はあなたを招いておられます。

イエス・キリストをまだ知らないままに、その主イエスの十字架と復活の本当の姿を知らずに生きることがあるでしょう。しかし、それでは結局は自分が生きるということになるのだと思います。パウロが塵あくたと言ったり、損失だと言ったりするようなものに、すがりつくようにして生きることになるのではないでしょうか。

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」、パウロはこう言います。そのように、私たちが生きる時も死ぬ時も、ただ一つの慰め主であるキリストへと、神はあなたをも招かれるのです。

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