キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい

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聖書の言葉

ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

新約聖書 使徒言行録 3章6節

西牧夫によるメッセージ

求め

教会には、様々な方が来られます。重い悩みをもって来られる方。温かい交わりを求めて来られる方。宗教的雰囲気を求めて来られる方。教会音楽の素晴らしさに魅かれて来られる方。人々が教会に求めてくるもの、期待してくるもの、それは様々です。しかし、特に何も期待もせずに、ただ知人の招きを受けて教会に来られる場合も多いのではないでしょうか。

施しを乞う男

今朝の聖書の場面は、「施しを乞うため」に、「生まれながら足の不自由な男」が、他の人の手によって「神殿の門の傍らに運ばれて来る」ところから始まります。彼は、40年を越える人生において、一度も、自分の足で立ち上がって歩いたことがありません。当時の社会では、人々からの施しに頼って生きざるを得ません。神殿の門の傍らに座り、目の前を通り過ぎる人々に次々と目をやりながら、施しを乞う毎日(2節)。

見る

男の置かれたそういう日常の中で、彼の眼差しの中に、境内に入ろうとする二人の男の姿が映る。男は、彼らを漠然と見ながら、慣れた手つきで施しを乞うのです(3節)。いつもなら、多くの人々は彼の眼差しに直接目を合わせることなく、その前を通り過ぎて行きます。たまに施しをしてくれても、立ち止まって彼の存在を注視する人は殆どいません。しかし、彼の前に立ち止まったイエスの弟子である「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見」つめます(4節前半)。

そして、彼らは「わたしたちを見なさい」と命じるのです(4節後半)。既に彼らを見て施しを乞うた男です。その意味では、彼らのことを見ていた筈です。しかしペトロたちは、それとは違う意味で、自分たちを「じっと見る」ことを求めました。互いに、ありのままの相手をしっかりと見つめ合う人格的交わりを求めた。その人自身を見出すための真実の眼差しを、男に求めたのです。

与えられた言葉

しかし、その時、男は、「何かもらえると思って二人を見つめた」のでした(5節)。ペトロは、この男の求めているものを知りながら、はっきりと、こう答えます。「わたしには金や銀はない」と。男が期待していたものはない。しかし、そのところで、ペトロは、「持っているものをあげよう」と語ります。ペトロが与えたもの。それは、「金や銀」ではない。同情や憐れみでもない。それは、次の「言葉」です。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)。

イエス・キリストの名によって

肉となられた神の言葉である「イエス・キリスト」。この「イエス・キリストの名」によって、ペトロたちは、神の力ある言葉を、この男に与えるのです。名前とは、聖書において、その人の存在そのものを現します。ペトロたちがここで、「イエス・キリストの名」によって、男に与えたもの。それは、神の言葉である「イエス・キリスト」にある命であり、「イエス・キリスト」によって成し遂げられた救いであり、「イエス・キリスト」による愛にほかなりません。

「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)。「そして、右手を取って彼を立ち上がらせ」ます(7節)。

「すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだし」、「そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」のでした(8節)。

「生まれながら足の不自由な男」は、生きて行くのに最低限必要な施しを求め、それ以上のことは求めていなかった。いやむしろ、求めることすら出来なかった。そのような困窮と悲惨の現実の中に毎日置かれていた男の前に、ペトロたちは、「イエス・キリスト」という方の存在を置く。キリストによって成し遂げられた神の救いの御業の中に、男を置く。そして、キリストによって現された神の愛の眼差しの中に、この男を置くのです。

すると、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていた男は、「イエス・キリストの名」によって、生まれて初めて、自分の足で立ち上がる。そして、「歩き回ったり躍ったりして神を賛美し」、ペトロたちと一緒に神殿の中に「入って行った」のでした。

キリストを見つめる目

私たちは誰でも、置かれた現実の中で、自分のことに焦点を合わせて生きています。それが人間の罪です。しかし、その自分から目を離して、主イエス・キリストの愛の眼差しの中に置かれ、キリストをじっと見つめる者とされる。「イエス・キリストの名」によって、罪赦され、癒され、自分の足で立ち上がり、神を賛美し、神を礼拝する者として、神の国へ招き入れられて行く。それが信仰です。

ペトロたちも、主イエス・キリストの十字架と復活による救いに与り、立ち上がり、神を賛美する者とされました。そして、祈るために、神殿に上ったペトロたちは、この男を見出したのでした。神は、キリストに出会った者たちを通して、今も、愛の眼差しの中に、私たちを置き、招き続けておられます。

『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。

ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』

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