今は見える

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聖書の言葉

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。

「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

イエスはお答えになった。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

新約聖書 ヨハネによる福音書 9章1~3節

藤井真によるメッセージ

私が小学校2年生の時でした。授業の中で担任の先生がこんな課題を出されたことを思い出します。

「あなたの宝物を持ってくるように」と。

そう言われまして、皆が宝物を持ち寄って、互いそれぞれの宝物を紹介し合い楽しい時を過ごしました。ただ私は「あなたの宝物は何?」と聞かれて、ピンときませんでした。当時、私は野球が好きでしたから甲子園に行ったときにお土産で買った野球ボールを持って行きましたけれども、本当の宝物を持っていない自分に気付かされて、意外とショックだったのです。

でも自分にとっての本当の宝というのは、手で持ち運ぶことができるものなのかと、ふと思います。その時、担任の先生は、「わたしの宝物は『思い出』だ」と少し洒落たことを言っていましたが、今になると、私も若いなりに先生の言葉が分かるような思いがします。大切なもの、過去の素敵な思い出です。忘れがたい人物との出会いです。

「古き良き時代」という言葉がありますように、私たちは過去を振り返ることが好きなようです。1世代、2世代前の歌がカバーされてヒットします。人情味に溢れた戦後の様子を描いた映画も大ヒットしました。昔は物が少なかったけれども、豊かな時代だったねと懐かしく振り返るのです。そうやって後ろを振り返ると、どこかホッと落ち着く光景や仲間たちの顔が見えてくるのです。

昔ものが流行るというのはいいことかもしれませんが、すべての人を笑顔にするものではないのではと思うこともあります。昔は良かったというのは、裏を返せば、今はダメだということでしょう。物や情報で溢れているにもかかわらず、本当の宝物を見失っている人間の姿が反映しているのかもしれません。

それに、すべての人にとって過去はいい思い出ばかりではないでしょう。あんな過去はなかったほうがよかった。あのとき、ああゆうことがなかったならば、今の自分はこうはなっていなかった。もっと幸せな人生をおくることができたに違いないと、悲しみと悔しさを滲ませながら思い起こさざるを得ない方も決して少なくないのではないでしょうか。

先程、ご一緒に御言葉を聴きました。主イエスと弟子たちが道を歩いていた時に、生まれつき目の見えない男がいました。彼は親からも見捨てられ、物乞いをしながら暮らしているようです。弟子たちは、この男を見て、すぐに主に尋ねるのです。「あの人が生まれつき目の見えないのは、だれのせいですか。本人ですか。それとも彼の両親ですか」。

昔も今も場所を問わず、人間の心の中には「なぜ」という思いが尽きません。そして、自分だけなぜこのような目に遭うのか。自分の不幸や惨めさを数えながら、どうしたらいいのかと問い続けます。いやもしかすると、もうそんなことを考えなくなって絶望に陥っているかもしれません。

イエスの弟子たちは、生まれつき目の見えない人を見ながら、この男は過去に何かとんでもない罪を犯した罰として、病になったのだろう。でも、生まれつき見えないというのだから、この男の両親が罪を犯したに違いない。親の罪を負わされなければいけないこんな理不尽なことはない。そう思ったのでしょう。

私たちはそれぞれ色々な人生を生きていますが、その人生を決めるのはいったい何なのでしょうか。生まれつき目の見えない人の場合には、自分の過去の出来事でした。私たちも、しばしば、同じ思いにとらわれることがあります。自分が小さい頃どう育ったのか。どういう家で、どういう環境で育ったのか。

あるいは誰かを傷つけてしまった場合には、何であんなことをしたのかと自分を責め続けます。そのように、過去が自分の人生を変えてしまうのです。そして、過去というのは変えることができません。変えることができないということは、自分の人生の将来も変えられないということになります。

しかし、神さまが私たちにお語りになることは、自分の過去どうだったとか、過去に何をしたのか。善いことをしたのか。悪いことをしたのか。そのことが、あなたの人生は決めるのではありません。なぜ今の自分はこうなったのかと、過去の原因を探っても出てくる言葉は、暗くて重たいものでしかありません。自分が犯した罪や運命としか言いようがない重い鎖に縛られてしまうだけなのです。自分の過去に満足していない、できれば自分の過去を変えたいと思っている人は少なくないと思います。でも過去は変わらないのです。

しかし、主イエスはおっしゃいます。「本人が罪を犯したからでもない。両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためだ」と。神さまがこれからあなたにしてくださること、そのことによってあなたの人生は決まるのだということです。主イエスは、神があなたにしてくださる将来のこと見ておられます。過去が私たちを決めるのではないからです。過去に犯した罪が私たちの人生を左右するのでもないのです。なぜなら、主イエスだけが、私たちの自分の力ではどうしても断ち切ることのできなかった罪の鎖を立ち切ってくださるからです。

主イエスはこのあと、目の見えない男に泥を塗り、「シロアム」(遣わされた者)と呼ばれる池に行って、目を洗うように命じられました。男はそのとおりにして、閉じていた目が開かれたのです。主がなさったことは、ただこの男の目を開かれただけではありませんでした。目が開かれた男に見てほしいものがあるのです。

本当に見るべきもの、見えていなければいけないものとは、あなたのために遣わされたイエス・キリストです。キリストが見えるとき、すべてが見えてきます。暗かった過去を変えることはできないかもしれません、今も背負い続けていかなければいけないかもしれません。しかし、主イエスに出会う時、過去の持っている意味が変わってくるのです。開かれた目で「今は、見える」と、主イエスを見て、喜びの歌をうたいながら前へ進むことができるのです。

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