野に咲く花のように

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聖書の言葉

だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

新約聖書 マタイによる福音書 6章27~29節

藤井真によるメッセージ

イエスさまがどのようなお顔をしておられたのかは分かりませんけれども、私は小さい頃から、イエスさまというお方は、優しいお顔をして、慰め励ましてくださるお方であると思っていました。だから、ここで「思い悩むな」と命じておられますけれども、きっと優しいお声で、「思い悩まなくてもいいのだよ」と語りかけてくださっているのではないか、と長い間思っていました。

でも、最近はそうじゃないのではないか。もしかすると厳しい顔立ちで「思い悩むな」とおっしゃっているのではないかと思うのです。どうしてかと言うと、思い悩むというのは、思い煩うということだからです。「煩う」というのは、病気になるということです。思い悩むという病にかかって、それを放っておきますと、いのちを脅かすものになります。死をもたらす「思い悩み病」と言うものに対して、主イエスは真っ向から向き合ってくださるのです。

ここで主イエスが問題にしておられるのは、私たちのいのちと体のことです。そして具体的に取り上げられているのは、食べるものと着るものです。この二つが、私たちにとって欠かせないものです。

食べるものは、直接私たちのいのちに関わります。だから時々、生きるということを「食べていく」と表現します。自分の将来を考える時、「一生涯、どうやって食べていこうか」、「これで本当に食べていけるのだろうか」ということがいつも気になります。

着るものは、ただ寒さを防ぐものではありません。服を着ることによって、裸の恥をかくしたいのです。豪華な服でなくてもいい。貧しくてもきちんとした身なりをしたいと誰でも思います。そうやって自分の尊厳を保ちたいのです。

主イエスは、食べるもの、着るものといった大事なものを取り上げて、自分のいのちのこと、体のことで思い悩むなというのです。でも、自分のいのちのことで思い悩むなと言われて、何を悩めと言うのでしょう。イエスさまのお言葉ですが、こればかりは受け入れることができないと思います。

でも、主イエスの言葉をよく聴きますと、決してあなたは自分のいのちのことなど考えなくていいのだ、と言っておられるのではありません。いのちのことで悩むのは当然です。

明日のことを考えることができないほどに労苦しながら生きていることをご存じです。その時に、そのあなたのいのちの価値とは何かを問うておられるのです。あなたは死ぬまで食べていけたらそれでいいのかということなのです。一生の間、食べるに困らなければあなたのいのちの問題は解決したことになるのですかというのです。

体のことについても同じことです。あなたがたが体のことで思い悩む時に、それは結局何を着ようとかという問題なのかということです。この自分の体を、あるいは自分と言う存在を、みっともなくない程度に飾ってくれるものがあれば、それでいいのか。いやそうではないだろう、と問うておられるのです。

主は、私たちのいのちと存在について知りたければ、空の鳥を見てごらん、とおっしゃいます。空を飛んでいる鳥を見たときに、鳥がやって見せてくれていることは、何か特別なことではありません。種を蒔くことも、刈ることも、倉に納めることもしません。他の動物たちも同じです。自分の人生に意味があるのだろうかなどということは考えません。ただ与えられたもので、いのちのある限り、生きているだけなのです。

でもそうやってただ生きているだけの鳥を見て、人は癒されるのです。自分たち人間の方が、鳥に比べて知恵があるし、計画を立てることもできる。自分は鳥なんかよりはるかに意味深い人生を生きていると思っているのに、でも、そういう人間が、ただ与えられたいのちを生きているだけの、自然のままの鳥を見て、癒されるのです。

本当は、私たちも自分は何もできなくても生きているだけで価値があるのだと信じたいのではないでしょうか。この自分はこの自分のままで、それでいいのだと思いたいのではないでしょうか。そう思いながら、自分で自分の人生を稼ぎ出すことに、一所懸命です。自分はあれを成し遂げた。これもやり遂げた。だから自分には生きた証がある。そうやって胸を張ります。それができなかったら、自分の人生には意味がないと考えてしまうのです。でも心のどこかで、疑っているのです。本当はこうやって自分の生きる意味を稼ぎ出さなくても、自分が自分であることに意味があるのではないか。そう思うのです。だから、与えられたいのちを生きている動物を見て、心癒されるのです。

また、主イエスは、野に咲いている花がどのように育つのか注意して見なさいともおっしゃいました。野の花は働きもせず、紡ぎもしません。花は自分の身を飾るための衣服を作りだしたりもしないのです。それに花は生きる場所だって選ぶことはできません。そこに種が落ちたら、それが崖の上であろうと、道端であろうと、花はそこで芽を出します。誰が見ていようと、見ていまいと、ほめてくれようとくれまいと、そこで花を咲かせます。それが自分のいのちだからです。そういう花を主イエスは美しいとおっしゃる。そして、あなたがたの存在は、あなたがたのいのちは、この花よりもはるかに尊く、はるかに美しいではないかと教えてくださるのです。

だから、何を食べようか、何を飲もうかということで、いのちを損なわないでいただきたい。どうやってこの人生を立派に飾り立ててやろうかなどという思い煩いで、あなたの大切な人生を損なわないでいただきたい。あなたは神さまにとって、あなたは他のどんなものにも比べられないほどに尊いものなのだ。そのことを信じてもらいたい。神さまがあなたの人生の真ん中にて導いてくださることを信じて生きていただきたい。そこにあなたの本当の輝きがあるのだからと、主はおっしゃってくださるのです。

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