あなたを忘れない

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聖書の言葉

シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。

旧約聖書 イザヤ書 49章14~16節前半

藤井真によるメッセージ

先程お読みした御言葉のなかに「忘れる」ということばがたくさん出てきました。「忘れる」ということ、これは日々の生活の中でよく経験することのひとつではないかと思います。せっかく覚えたことを忘れてしまったり、誰かに頼まれた用事を忘れてしまう。そして、忘れると大抵パニックになることを知っています。忘れ物をしたときに「しまった、まぁいいか」とその程度で済めばよいのですけれども、取り返しのつかないこともたくさんあるのだと思います。日々の何気ないことかもしれませんけれども、忘れること、忘れられることによって、どれだけのトラブルや傷が私たちの身の周りで生じていることかと思うのです。

先日あるドキュメンタリー番組を見ました。それは、ある児童養護施設に焦点を当てた番組です。児童養護施設というのは、親が育児を拒否したり、何らかの理由で育てることができなくなった子どもたちを預かり、そこで一緒に生活をする場所です。赤ちゃんから長くても高校3年生くらいまでそこで生活をするそうです。その番組の中で、小学校に入学する直前の子どもに、ディレクターの人がインタビューをしていました。「お母さん迎えに来てくれると思う?」その人はそう尋ねる。その子は力強く確信と期待に満ちてこう答えるのです。「僕のお母さんやで、僕のこと忘れるわけないやん!絶対に忘れるわけない!絶対来てくれる!」でもそのすぐあとに悲しげな顔をしてこう言うのです。「でも、電話がつながらないみたい…。僕のこと忘れたのかな…。いやそんなことをない!でもやっぱ忘れたんかな…」。忘れるわけがない。自分は絶対に愛されている。そのことを信じたい。けれども現実はそうじゃないこと知るのです。確信と希望が悲しみと絶望に変わっていく幼い子どもの表情をわたしは忘れることはできませんでした。

神さまは「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか」とおっしゃいます。つまり、普通はそんなことあるはずがないということです。母親が神さまから与えられた子を捨てるはずなどありえないことです。しかし、そのありえないことが起こる。それが忘れられてしまうということ。愛されないということです。それは、何も自分が誰かに忘れられた、誰かに愛されなかったということに留まりません。反対に、自分の誰かのことを忘れてしまう。誰かのことを愛することができなくなったったという経験をするのだと思う。ありえないことをされたり、したりして生きている現実が私たちにはがあるのです。

そんな私たちがどうしたら力強く立ち上がることのだろうか。それは自分がここにいるということを、誰かにを覚え続けてもらうこと以外にないと思います。家族から、友人から、教会の仲間たちから、そして誰よりも神さまから忘れられてはいけない存在であることを知るときに、私はここにいていいのだ、生きていてよいのだという安心と喜びを知るのです。親と離れ離れになっていた子どもたちを預かっている養護施設の方が、一所懸命そこにいる子どもたちに伝えたかったのはそのことです。あなたはここにいていい。生きていていい。私たちはあなたを忘れないから…。

神さまはあなたのことを決して忘れないと約束してくださいます。では、どのようにして、あなたのことを覚えようとしてくださったのでしょう。神さまはおっしゃいます。「わたしの手のひらに刻みつける」と。私はこの言葉を聞くとき、色んな思いに導かれていきます。手のひらに刻みつけるとき、それは当然、手に傷が生じ、同時に痛みと苦しみが生じます。自分はひとりぼっちで忘れられている。なのに、どうして神さまさえも私を見捨てるのですか。そのように傷つき嘆く私たちを、神さまはご自分のその手のひらにまるごと刻みつけてくださるというのです。私たちの苦しみを、ご自分の苦しみとして引き受けてくださるというのです。

そして「わたしの手のひらに刻みつける」という言葉を聞くとき、具体的にあるひとりのお方のことを思い起こします。神の独り子である主イエス・キリストです。主イエスは人としてこの世界に生まれてくださり、人々と共に歩んでくださいました。しかし、最後に、主イエスは十字架につけられ、そこで手に釘を打たれ、はりつけになったのです。主イエスは十字架の上で私たちが負うべき傷を負い、血を流し、いのちを注いで、私たちの罪を洗い流してくださいました。

また聖書は、最も大切なこととして主イエス・キリストの復活の出来事を告げています。わたしの手のひらに刻みつけてと約束してくださった主は、十字架の傷跡を見せながら、悲しみに暮れていた弟子たちのところに来てくださいました。その時、主イエスは傷のない奇麗な姿でよみがえったのではありません。私たちの傷を負いながらよみがえってくださったのです。傷を見せながら私たちの前に現れてくださった。しかし、それは傷を深く負って、弱々しく何とか立っているというのではありません。復活の主はいのちに満ち、力強く立っているのです。

だから、あなたも傷を負いながらも、なお立つことができます。それも力強く立つことができる。どうしてか。主がよみがえってくださったからです。主があなたの身代わりになって死に、そしてよみがえってくださったということは、あなたもイエスさまのように、傷を負いながらも力強く立つことができるということです。病の床にあっても、動けなくても、そして死んだとしても、それに打ち勝ついのちに立つことができるのです。たとえ、愛がどこにあるのか見えなくなったとしても、あるいは私たちが愛に生きることを忘れてしまったとしても、主の十字架の傷、主の復活の傷を見るときに確かに見えてくるものがあります。聞こえてくる言葉があるのです。「わたしはあなたを忘れない。あなたを愛している。ほらわたしの手を見てごらん、あなたの名前がここに刻まれているだろう」。この主の言葉は決して消えることはないのです。

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