『救い』とは何ですか?①

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聖書の言葉

だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。

新約聖書 使徒言行録 2章36~42節

坂井孝宏によるメッセージ

悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい、と言われています。これは救いへの招きです。悔い改めなさい、そして罪を赦していただきなさい。これが、神様から皆さんに今日与えられている言葉です。

人間にとって救いとは何か。

一言で言えば、罪の赦しと永遠の命であると、私は神学校の校長先生から教えていただきました。今日は、罪の赦しについてお話したいと思います。

このことを考えるために、私の生い立ちについて話しをします。私は愛知県の片田舎で生まれた田舎者ですが、うちの家には御岳本教という家の宗教がありました。御岳山の、山の神を信じる信仰。私のじいちゃんはその先達さんという働きをしていまして、本当に熱心な信者で、毎日早朝と夕べにお経をあげて、家族の名前をあげてお祈りしている姿をよく覚えています。

そういうじいちゃんの信じる神さんのことを、私もごく自然に身近に覚えて、何かとても切ない気持ちの時や、困難に直面した時には、神棚の前にすわって「神様・・」とつぶやいたりした。そういうまったく異教徒の家で育った私が、やがて不思議な導きによってキリストを信じることになるわけですが、そういう私から言わせてもらえば、じいちゃんの神さんと聖書の神様の決定的な違いというのが、罪の赦しということです。この罪の赦しということが、自分にどうしても必要だと悟ることがないならば、別に聖書の神様じゃなくていいんです。じいちゃんの神様で十分だったのです。

私にとって、目には見えないけどもそばにいてくれて、家族を支えていてくれて、願い事を聞いてくださる、そんな程度の神様は前からいたのです。もちろん、それは神ではないと今は知っていますが、ずっと物心付く前から、私はじいちゃんの神さんと親しくしてきたわけで、それが神というものだと理解して成長してきましたから、神様には不足していないわけです。

いくらキリスト教の神が絶対だと言われても、勝手に言ってろってなもんですね。この神様に命を救われたとか、人生を切り開いてもらったとか、助けてもらったとか、そんなこと言われても別にとりたてて感動はない。そんなのは、キリスト教の神様だけの専売特許じゃないからです。新興宗教の信者だって同じことを言います。じいちゃんの神さんだって、我が家を何度も救ってくれましたし、私の人生をわりとハッピーにしてくれていました。

でもイエス・キリストの父なる神というのは、その程度の神様じゃありません。私の「罪」というものを徹底的にお怒りになる義の神です。じいちゃんの神さんは、私が悪いことしてても何も言いません。たまには罰が当たるかもしれませんが、はっきり声に出して怒ることはありません。

でも聖書の神は違うのです。私の罪を糾弾される。お前は存在そのものが腐り果てていると。これを知った時は、正直つらかったです。こんな神様を認めるなら、息苦しくてしょうがない。神様は、私の心の中まで全部あばいて裁かれる方です。そう考えると、しんどいです。だから最初は、やっぱりキリスト教はしんどいなあと思いました。

でも、キリストの父なる神は徹底して義なる神であると同時に、徹底して愛なる神様でもあるのですね。これがイエス・キリストの十字架の意味です。キリスト教というのは道徳じゃない。ただ神様の目を意識して、正しく生きるなんてことじゃない。この罪人である自分が愛されていると信じることです。神様のどうしようもない罪人、でもそんな私を愛さずにはおれないで、そのまま受け入れてくださる神。

「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)」ここにこそイエス・キリストの父なる神の本領があります。

だから私は最終的に、この神様に人生を委ねることを決断しました。残念だけどもじいちゃんの神さんは本物ではないと判断して。じいちゃんの神さんは、私の罪の問題を処理できないからです。私の罪を問い詰めることもない代わりに、私の存在の最も深いところでの悲しみや痛みを救うことはできない。それができるのは、罪を赦してくださる方である、イエス・キリストの父なる神だけです。

じゃあ、罪とは何なのか。これもまた深い問題です。とてもじゃないですが一言では答えられません。本当に今、関心を呼び起こされておられるなら、どうぞ教会に来て、聖書を読んでください。外から眺めてるだけじゃ、絶対に分かりません。本気で自分の罪と取り組む者に、神は必ず、本気で答えてくださいます。

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