いのちの深呼吸

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聖書の言葉

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい・・・。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 20章21~22節

藤井真によるメッセージ

今日は、教会の暦で「聖霊降臨日」(ペンテコステ)と呼ばれる日です。教会の誕生日、教会の創立記念日でもあります。死に打ち勝たれた復活の主イエスが、弟子たちに聖霊を注がれ、聖霊に満たされた弟子たちは、キリストの福音を力強く宣べ伝えました。そこに最初の教会が生まれたのです。

聖霊――それは「いのちの息」とも呼ばれます。息をして、呼吸をすることは生きていることの証し、いのちがある証拠です。もし息ができなくなったら、私たちは死んでしまいます。けれども、主イエスが与えてくださるいのちの息は、私たちが普段している呼吸とは違います。肉体のいのち、心臓の鼓動によって動くいのちとは、別の素晴らしいいのちに生かしてくださる息吹を与えてくださるのです。

聖書のいちばんはじめに記されている「創世記」という書物の中には、神さまによって、人間が造られ時のことが記されています。土をこねて人間をお造りになった神さまは、最後にご自分の息を吹き込んでくださったのです。そのようにして、人間は神さまのいのちを宿す者として生きるようになったのです。

先程お読みした「ヨハネによる福音書」では、復活の主が弟子たちに、息を吹きかけられたことが語られていました。もう一度、神さまの息吹を吹き込まれ、新しい人間として、造り変えてくださったのです。

でも、ふとこんなことを思います。どうして主イエスが、もう一度、息を吹き込まなければいけなかったのかということです。主イエスがいのちの息をもう一度吹き込まれたというのは、神さまが最初に与えてくださったいのちの息が不十分だったということでしょうか。そうではありません。私たち人間が神さまから与えられていましたいのちを生き損なってしまったということです。だから、生きるのが息苦しくて、胸が詰まるような思いで、生きなければいけなくなったのです。

それは、はじめの教会で大きな働きをした主イエスの弟子たちも同じでした。主イエスが復活された日の夕方、声を出せずに、家の戸に鍵をして閉じこもっていたのが弟子たちです。主がよみがえられた日に、誰よりも真っ先に部屋を飛び出て、主の復活を語るべき人たちです。けれども、彼らは喜びの言葉を失っています。

このとき弟子たちは、ひとり寂しく部屋の中にいたのではありません。ユダとトマスを除いた十人の弟子たちがいます。他にもたくさんの弟子がいたかもしれません。ひとりでは怖いと思ったのでしょう。仲間が集まれば、何とかこの状況を脱することができると考えたのでしょう。

けれども何も変わらないのです。弟子たちの中で、ひとりぐらいこの息詰まっている状況を打ち破る勇気ある言葉を、口に出すことができたかもしれません。「こんなところに閉じこもっていないで外に出よう!主がよみがられたことを皆に伝えに行こう!」しかし、誰も言葉を発しないのです。何を語ってよいのかわからない息苦しさが、弟子たちの胸を締め付けていたのです。

人間の悲しみについて色んなことが言えるかと思いますが、その語るべき言葉を見失ってしまうということです。あるいは、真実に人を生かす言葉を語り得ていないということなのではないでしょうか。

演出家の竹内敏晴さんという方が次のようなことを言っていました。

「泣いてばかりいてはわからないからちゃんと話しなさい」と言うが、ちゃんと話せないから泣いているのだ。現代は、もっと自分のことばを語ることがむつかしい時代になっているかもしれない。仕事上のやりとりでも世間のつきあいでも、忙しく油断なく、他人に合せてことばをあやつらねばならない。その気づかいばかりに疲れ切って、人は元気よく他人のことばに応えてみせはするが、自分のことばは語り切れず、次第に声をとどけ切れなくなり、引きこもってゆく。・・・自分のことばを語り出すためには、この「泣き声」を受け止めてくれる人、からだが語っていることばを感じとってくれる人がいなくてはならない。

『声が生まれる』(竹内敏晴著、中公新書)より

竹内さんは言います。自分の言葉を語り出すには、泣き声を受け止めてくれる人がいないといけない、と。そのとき、私たちは本当の言葉を取り戻すというのです。

この時、部屋に閉じこもっていた弟子たちは、主が十字架にかけられる前に、見捨てて逃げ出してしまった人たちです。弟子たちは皆、自分たちの罪を知っています。痛みを知っています。そして、涙を知っているのです。しかし、彼らは自分たちの泣き声を本当に受け止めてくださるお方をまだ知りません。涙の奥にある、自分たちの罪を赦してくださるお方がいることをまだ知らないのです。

だから、復活の主は、恐れに満ち、声を失ってしまった弟子たちのところに来てくださいました。彼らの罪を赦して、平和を告げるためです。それだけではありません。弟子たちがもう一度、心開かれて、喜びの言葉を語ることができるために、復活の主は、息を吹きかけられ、聖霊を与えてくださいました。

いのちの息を受けた弟子たちは、この後、閉じていた扉を開けて、外に出て行ったのです。そして、主イエスから与えられた新しい言葉を口にしながら生き始めます。この言葉は、自分を生かすだけではありません。隣人を真実に建て上げる愛の言葉、赦しの言葉です。この喜びの知らせが、今も教会の中で響き合っているのです。

私たちの心の中にも様々な声が渦巻いているかもしれません。その声を口に出すことができないほどに、息苦しいと思うことがあります。その声を口に出しても、何も響かない壁を前にして、立ちすくんでいるだけかもしれません。

しかし、復活の主は、それらの声の壁を突き破って真ん中に立ってくださり、私たちが心から喜んで声をあげることができるために、今日も、いのちの息を吹き込んでくださいます。

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