主イエスを信じるということ

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聖書の言葉

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 4章6~7節

長井正人によるメッセージ

長井です。私は、九州の福岡県にある長丘教会の牧師をしています。

この御言葉との出会い

今日は、神が私に洗礼を授けてくださった前後のことを語ります。神は私が27歳のときにキリスト教の洗礼を受けるようにと予定してくださっていましたが、私にとってはまったく予想もしていないことでした。

今日与えられている神の言葉は「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」といっています。神が私に洗礼を受けるきっかけとして与えてくださった言葉です。

思い煩いは、何かを思い続けることで病人になる状態のことです。思い煩いの力は、体力や気力を奪い取るほどのパワーがあります。実際に、思い煩いは、深刻な悩みや、困難な状況と深い関係があります。しかもそれらが、自分と深いかかわりがあればあるほど、思い煩うことになります。

この世界には、貧困、虐待、格差、困難におかれている人々がたくさんいるのですが、その当事者でないと、それほど思い煩いはありません。思い煩いは、自分の事柄、自分と深い関係にある事柄に対して起こります。他人から見ればそのひとが思い煩っていることがわからないときでも、本人は真剣に思い煩っているということはよくあることです。中には人には言えないような思い煩いもたくさんあるでしょう。思い煩うことによって、いずれ答えや出口が見つかればよいのですが、自分の力ではそれができないので、思い煩いは深いものとなります。

そのような中で、神は「どんなことでも思いわずらうのはやめなさい」といい、神に思い煩いを投げなさいと語ってくださいます。それは、あなたの思い煩いを、あなたの中から、神に差し出しなさいというこということです。私が、思い煩いの中にあったとき、この神の言葉によって救われた思いがしました。

神はどのようにして信仰を与えてくださったか

さて、これから神がどのようにして信仰を与えてくださったかを話したいと思います。まず教会へ行った動機です。私が教会に行こうと思った動機は、その当時付き合っていた彼女の前の彼氏が教会に通っていたからです。教会で彼女が前の彼氏と二人きりになって、またもとの関係が復活することをおそれた私は、とにかく彼女のそばを離れないようにという気持ちだけで教会に行きました。入信したいとか、神を知りたいなどという動機からではありませんでした。

困ったことに、彼女は毎週教会に行くと言い張るので、仕方なくついてゆく羽目になりました。もうひとつ困ったことは、教会がまったく楽しくなかったことでした。礼拝の説教は、高校の時に受けた国語に授業のように思いました。そのような思いの中で、40分近く座ったり立ったりしてどうにかしてほしいと感じました。

もっと驚いたことは、聞こえてくる聖書の話の中で、とうてい受け入れがたい、おとぎばなしのような内容が時々語られていたことでした。主イエスという人が湖を歩いた、死んだはずの子供が生き返ったなど、当時の私にとって、笑ってしまうような内容があったことです。教会の人たちは、頭がおかしいので本気でこんなことを信じているのかと思っていたのです。

どうせ、彼女の手前、毎週教会に行かなければならないのなら、この教会の人たちの頭を正常に戻してあげようと思って、聖書を読み始め、明らかにおかしいと思えるような箇所を選んで、牧師や信徒をつかまえては、いちゃもんをつけていました。私の教会通いはこの目的のためにかなり楽しいものとなりました。

今、思い起こしても不思議なことは、教会の人たちは私のような迷惑な人間ともそれなりに接してくださったことです。献金の祈る姿に対して、神様ばかりに頼るのはおかしいとか、あなたたちは偽善者だ、などと、毎週、誰か彼かに詰め寄る姿をみて「長井さんは絶対にキリスト信者にはならない」と確信していた人もいたそうです。

私を襲った思い煩い

さて、神の真剣な問いは、裁きや困難を人に与えることにより、与えられた本人は思い煩いの中に置かれます。私の楽しい教会生活は、ある出来事により、思い煩いに包まれました。神の怒りが下ったのでした。

私は、半同棲生活をしていました。当然、肉体関係が伴います。教会に通いながら、そんなことをしていました。そして、ついに彼女が妊娠をしたのです。教会を知る前なら、そんなことはよくあることだから、と片付けるところですが、なぜか悩み、思い煩いました。

大変なことをした。自分こそ偽善者である。自分がしたことは取り返しのつかないことだ。まして、一人の女性と新しい命にかかわることだ、と真剣に悩み、罪の重さに耐えられなくなりした。彼女の両親に謝罪の手紙を書き始めましたが、一文字も書けませんでした。自分の中から出てくる言葉のむなしさを痛感したのです。自分にはよいものはひとつもないことに打ちのめされました。

わたしは初めて聖書に真剣に向き合いました。聖書の言葉に救いを求めたのです。そのとき、私の救いとなったのが、今、読んだ聖書の言葉だったのです。「何事も思い煩うな、神にすべてを打ち明けなさい。人知を超える神の平和がキリスト・イエスによってあなたを守るでしょう。」

私は、自分の罪を認め、神にすべてをささげる決心を、このときしたのです。それは、誰かが私の心の扉を開き、平安を与えてくださったとも感じられる現実的な救いでした。その後、私はその彼女と結婚をしました。

これが、神が私に信仰を与えてくださったいきさつです。主語はあくまでも神です。思い煩いのなかで、その具体的な思い煩いを、神に差し出してみてください。神は喜んであなたの思い煩いを受け取り、次のようにおっしゃいます。

あなたはもう思い煩わなくてもよい。それは、私の仕事だから。

あなたは、ただ罪の赦しを信じて安心し、行きなさい。

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