そして気付いたこと

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聖書の言葉

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章9節

山口耕平によるメッセージ

先週わたしが自分にがっかりしたとき、聖書の言葉に助けられたお話をしました。そのとき神さまは自分のことをなさけないな、ちっぽけだなと思っていたわたしに「恐れるな、[…]わたしが、あなたを助ける」と言ってくださいました。

言われてわたしが気付いたこと。それはわたしが周りにいる人たちからいっぱい助けられていたということです。当時わたしが思っていたこと。それは助けなきゃ、ということでした。わたしはまわりに迷惑をかけないように、父のことを助けなきゃ、とばかり思っていました。一方でわたしが父の介護をしながら勉強している。このことは周りみんなが知ってくれていることでした。

シャープペンシルも、その芯も、書くノートでさえ、なにも言わずに差し出してくれる同級生たちがいました。心配して声をかけ、祈ってくださるや先輩や後輩、そして先生方もいました。そして一緒に父のことを考えている妻も兄も、またヘルパーさんもいました。でもわたしは自分のことばかり考えて、助けてもらうばかりの自分のことをちっぽけだな、いやだなと感じていた。そのことに気付かされました。

家に帰ると、父が待っていました。当時父は、強くしりもちをついてしまったことで背中の骨にひびが入り、急いで取り寄せた介護ベッドでほぼ寝たきりの状態でした。あまり食事を摂りたがらず、トイレにもいかない。そしてリハビリも休みがちな父に当時の私は苛立ちさえおぼえていました。痛いのはわかるけれど、このままでは父が一番望んでいる自宅での生活ができなくなる。そのためには食べること、トイレに行くこと、そしてそれらが出来るようにかかさずリハビリすること。それが大切なことでした。その大切さをなぜ父はわかってくれないのだろう。なぜ頑張らないのだろう。伝えても微妙な顔をされるだけだったので、わたしは苛立っていたのです。

ただ、その日わたしは父のその微妙な顔を見て、あることに気付きました。それは父も私と同じなのかなということです。父も自分のことをちっぽけだな、いやだなと感じている。食べないのも、トイレにいかないのも、そしてリハビリにいかないのも、父なりに周りに迷惑をかけたくないから。そしてなにより迷惑をかけているちっぽけな自分がいやになって、嫌いだから。わたしにはそんな風に思えました。そして神さまはそのことを気付かせるために、聖書の言葉を通して私のちっぽけさを教えてくださったのでした。

気付いてからしたこと。それが今朝の聖書の言葉にあること。「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇る」ということでした。父はわたしが何を言っているのか。その内容はよくわからないようでした。ただ、わたしがどんな気持ちで言っているのか。そのことはよく理解してくれました。最近忘れ物が多くて自分で自分がなさけない。毎日がうまくいかない。そんなささいなことを含めて困ったこと、悩んでいることを父に隠さず話すようにしました。その都度父は困ったような顔をしたり、また悲しんでくれたり、そして笑ってくれたりしました。そのような生活が続き、父は少しずつ回復していました。しかしその3か月ほどあとに持病の心不全が悪化して、父は天に召されました。

父にとって最後の日々がどうであったのかということを、今でもふと考えることがあります。その日々は神さまがわたしの弱さをも用いて、父を回復させてくださった日々です。それは息子を思いやる父としてのことでもありますが、なにより父のうちに宿るキリストの力ゆえのことだと聖書は告げています。そして聖書の言葉のとおりに、キリストは私たち親子の弱さの中でこそ十分にその力を発揮されて、最後のときを彩り豊かなものとしてくださいました。

『主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内(うち)に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』

今朝このラジオを通して、このキリストの力が皆さんの内に豊かに宿り、大いに喜ばせてくださることを願っています。

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