神様より怖いもの

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聖書の言葉

主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。

旧約聖書 詩編 118編6節

宮武輝彦によるメッセージ

いつもキリストへの時間で、毎週冒頭に読まれる言葉は、聖書の言葉の一節です。聖句とも言います。聖書は、旧約聖書39巻と新約聖書27巻からなり、合わせて66巻あります。その全体で一つの聖書です。この聖書をつなぐ鍵になる言葉は、「約束」「契約」です。そして、その約束の中心は、神様の約束された救い主、イエス・キリストが来られることです。「旧約」においては、イエス・キリストがこれから来ることが約束され、「新約」においては、イエス・キリストが、神様の約束のとおりに来られたことが書いてあります。つまり、旧約聖書と新約聖書は、イエス・キリストが、本当に、神様の約束された、救い主であることを伝える一つの証明書です。

それでは、どのようにして、神様は、この約束を、地上を生きる人間に示してくださったのでしょうか。

最初の救いの約束と言える、「原福音」と呼ばれる聖書の言葉が、創世記3章15節にあります。

この言葉は、蛇の言葉に騙されて、実は悪魔の誘惑と理解されますが、神様から決して食べてはならないと命じられていた、園の中央に生えている木の果実を食べたアダムとエバが、神様を怖れて、神様の顔を避けて、園の木の間に隠れていたときのことです。神様が、、蛇に向かって言われた言葉です。少し前から読みますとこのように書かれています。

「主なる神は、蛇に向かって言われた。『このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫との間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。』」

この「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間にわたしは敵意を置く」という言葉は、神様が自ら、悪魔と全人類の間に敵意を置かれ、その歴史において、戦うことを約束されたことを意味します。私たちは、人間の歴史が、いろいろな戦いの歴史であることを知っています。国と国との争いはもとより、人間同士の争いとその結果、様々な傷と痛み、悲惨を負っています。

神様の顔を避けて、園の木の間に隠れたアダムとエバの姿は、人間が、神様よりも怖いものを知った姿を物語ります。それは、自分の罪が明らかになることであり、あるいは、罪のために負うこととなった死ぬ身であることを認めることを怖れることなどです。

この意味で、罪は、悪魔が誘惑する隙をいっそう与えるものとなりました。なぜなら、悪魔にとって、神様の顔を避けて、神様よりも怖いものを知っている人間こそ、格好の餌食といえるからです。

罪は、幻想ではく現実です。その結果、人間は、神様よりも怖いものを知ったものとして、神様の顔を避け、その身を隠すものとなりました。

しかし、神様は、この、原福音と呼ばれる、最初の救いの約束において、「彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く」と約束しておられます。

じつに、この「彼」こそが、神様の独り子イエス・キリストです。この御方が、悪魔を砕くのです。どのようにして、イエス・キリストは、悪魔の支配を砕かれたのでしょうか。それは、自ら、十字架の上に、命をささげてくださることによって、ご自身の民の身代わりの死を遂げることによってです。どうして、それが、悪魔の支配を砕くことになるのでしょうか。

それは、神様が、十字架の刑罰を、人間の法的な刑罰を用いながら、その実、約束を実現された、神様の正しさに適う、永遠の祭壇としてくださったからです。それを証しするものとして、その時、エルサレムの神殿の垂れ幕が、上から下まで真っ二つに裂けたのでした。それは、神様の目を避けて、神様よりも怖いものを知った人間が、再び、神様に目を向けて、神様にはばかることなく近づく者とされる回復の道が、ここにあります。

イエス・キリストが来られるまで、幕屋や、神殿で、繰り返しささげられて、動物の犠牲は、神様の御子イエス・キリストの完全な犠牲をあらかじめ表すものでした。遂に、十字架の上に、御子の命がささげられたことによって、動物の犠牲は、不要となり、御子を信じる信仰によってのみ、神様に目を向けて、神様に近づく礼拝が、恵みによって与えられるのです。

冒頭に読まれました詩編の言葉は、「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう」と、主なる神様が、「わたしの味方」であると告白します。それは、もはや、神様と人間を隔てる罪と敵意の壁が解消したことを意味します。この旧約聖書にある詩編の言葉は、新約聖書において、キリストの福音を人々に伝えた使徒パウロにおいて、このように言い表されました。

「もし、神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマの信徒への手紙8章31,32節)。

じつに、十字架の上で、御子の命をもって、悪魔の支配を打ち破られた神様は、なおも、神様よりも怖いものに依存してしまう人間の弱い心を知ってくださりながら、私たちを、確かに、ご自身の味方として固く守ってくださっています。どうか、すでに、一度、十字架の上に、その命をささげてくださった、イエス・キリストのもとに来て、神様に目を上げる者となってください。良き導きを祈っています。

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