自由を与えるために

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聖書の言葉

主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。

旧約聖書 イザヤ書 61章1節

弓矢健児によるメッセージ

聖書は、神が救い主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったのは、あなたを自由にするためであると教えています。それならば自由とは何でしょうか。

一般に自由とは、私たちが束縛から解放され、私たちが自分の意思で決定し、発言し、行動できる権利、それが自由であると言われます。ある意味で、人間の歴史はこの自由を獲得するための歴史であったとも言えます。かつて奴隷制の下では、奴隷には自由はありませんでした。奴隷には言論の自由も、行動の自由も、職業選択の自由もありませんでした。しかし、歴史の中で奴隷制は崩れていきます。また、その後の封建制社会の中でも、人々は身分に縛られ、自由に生きることはできませんでした。すべての人間が自由で平等であるという考え、また、すべての人に基本的人権があるという考え方が、社会の中で定着するのは近代市民社会以降です。それでも、現代に至るまで、まだまだ、私たちの社会には、差別や抑圧、不公平があるのは皆さんもご存知です。法律の上では自由であっても、格差社会の中で、そうした自由が一部のお金のある人々だけの自由になってしまっている。そんな現実もあります。自由の実現は今なお、私たちの社会の大きな課題です。

しかし、社会の中で人権や自由が保障されたとしても、人間はそれだけでは完全に自由に生きることはできません。なぜなら、私たちの自由を束縛する力は、実は私たち自身の中にもあるからです。聖書はそれが罪だと教えています。イエス・キリストは新約聖書ヨハネによる福音書8章34節で、「はっきり言っておく。罪を犯すものはだれでも罪の奴隷である」と言われました。この世界で罪のない人は誰もいません。誰もが自己中心的な思い、利己的な思いを心の奥底に抱え、罪を犯してしまいます。このように言いますと、皆さんの中には、自分は人を殺したことも、人のものを盗んだこともない。法律に違反するような罪など犯したことはない。このように反論される方もいるでしょう。しかし、聖書は、心の中で人を憎んだり、妬んだりすることは、心の中で相手を殺すことと同じだと教えています。すべての罪はまず心の中で犯されるからです。

この世の法律は人間の外なる行為を裁きます。しかし、神は人間の内なる心の思いを裁くのです。したがって、神の目から見たとき、人を殺したことのない人、姦淫したことのない人、盗んだことのない人、偽証したことのない人は誰もいません。すべての人間は神の御前に罪を犯しています。そして、その原因は私たちの心が罪に支配され、罪の奴隷になっているからだとキリストは語ります。すべての人間が罪の奴隷になっているからこそ、私たちは罪を犯してしまうのです。

当たり前ですが、罪を犯した人は、その罪が裁かれなければなりません。そうでなければ、正義が失われてしまうからです。罪が裁かれず、犯罪が放置されてしまうならばそこに正義はありません。しかし、そうだとすると、神の御前に罪を犯している私たち人間は、すべて神に裁かれなくてはなりません。そして、神の裁きは永遠の死です。つまり、本来ならば罪の奴隷である私たち人間は皆、自らの罪の故に、神の裁きによって永遠に滅ぼされて当然なのです。それにも関わらず、神は私たちを愛してくださいました。そして、私たちを罪の奴隷から解放し、自由を与え、死の裁きから救おうとなさったのです。

本日のイザヤ書61章1節でイザヤが預言しているように、神は罪の奴隷として捕らわれ、死の力のもとにつながれている私たち人間に自由を与え、解放するために救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。そのためにキリストは、私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかり神の裁きを受けてくださいました。ですから、このキリストの十字架を信じ、受け入れることによって、私たちは罪の奴隷から解放される。聖書はそのことを教えています。

イエス・キリストを信じるということは、罪を悔い改め、罪の奴隷からも、死の力からも解放されて、真の自由を与えられるということです。それゆえ、キリストを信じる者はもはや誰の奴隷にもなりません。この世のどんなものも、権力も、私たちを支配することはできません。私たちはキリストの愛の中で、喜びと感謝を持って自由に生きることができるのです。キリストを信じることによって与えられる自由こそ、私たちの新しい人生の原動力です。困難や苦しみの多いこの世界の中で、それでも私たちが前を向いて、希望を持って生きることができるのは、イエス・キリストによってこの自由を与えられているからです。

しかし、なぜキリストは私たちに自由を与えてくださったのか。それは私たちもまた、キリストがなさったように、この自由を用いて隣人を愛するためです。キリストは真の神の御子であり、誰よりも自由な方です。しかし、キリストは私たちを愛し、私たちを救うために、その自由を用いて、私たちに仕えてくださいました。それは、私たちもまたこの自由によって、互いに愛し合って生きるためです。

貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために、私たちもまた自由を与えられているのです。

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