クリスマスの美しさ

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聖書の言葉

彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

旧約聖書 イザヤ書 53章4,5節

藤井真によるメッセージ

キリスト教会では今、待降節(アドヴェント)の時を過ごしています。今年も1年の最後にやって来るクリスマスを迎える備えをするのです。ラジオやインターネットをお聞きの皆さまの中には、まだ教会に行かれたことのない方もおられることでしょう。でも、クリスマスのことについては、何となく知っているという方は意外と多いのではないでしょうか。クリスマスというのは、どうもキリスト教のお祭りらしい…。クリスマスになると街の至るところで美しい賛美歌が流れ、綺麗な光で満ち溢れている…。子どもたちはサンタクロースからのプレゼントを楽しみにしている…。季節は冬です。外に出ると本当に寒いのですけれども、どこか私たちの心がジーンと暖かくなる。それがクリスマスだと。

クリスマスというのは、救い主イエス・キリストがこの世界にお生まれになったことをお祝いする時です。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカによる福音書2章10,11節)2千年前、世界で最初のクリスマスの夜、天使が羊飼いたちにそう告げましたように、クリスマスは私たちにとって大きな喜びです。キリストが来てくださったことによって、私たちの人生には絶えず喜びの音色が鳴り響くのです。喜びを妨げようとするあらゆる力が私に襲い掛かって来たとしても、イエス・キリストをとおしてもたらされる愛の力が私たちを終わりまで守り、導いてくれるのです。

クリスマス、それは神の愛と喜びに満ちた時、美しい光に包まれる時でもあります。ところで、なぜイエス・キリストはこの世界に来てくだったのでしょう。そのことを考える時、明るい光だけを見つめていては分からないことがあるのです。つまり、私たち人間が抱える「闇」を見つめることが同時に求められるのです。でも、クリスマスという楽しい時に、どうして自分の闇を見つめなければいけないのでしょうか。自分の嫌な部分、醜い部分を見つめたところで何が生まれるのでしょうか。ただ気持ちが暗くなるばかりだと思う方もおられることでしょう。よく「自分自身としっかり向き合うことが大切だ」と言いますけれども、冷静に考えるとそれは自分を誇れる部分に限られているのではないでしょうか。自分のきれいな部分、美しい部分はいくらでも見ていたいものです。

今日はお話の最初にイザヤ書第53章の御言葉をお読みしました。イエス・キリストがお生まれになる五百年以上も前に書かれたものです。ここにひとりの人が登場します。しかし、まるで人とは思えないほどに実に醜い姿をしているのです。輝かしい風格も、好ましい容姿もありません。軽蔑され、見捨てられ、痛みを負い、病を知っています。誰も彼を見ようとしないのです。彼と一緒に生きようとする人もいません。まったくの孤独です。なぜ、こんな悲惨な目にこの人は遭わなければいけないのでしょうか。理由は分かりません。でも分かるとすれば、この人が本当に赦され難い大きな罪をおかしたのだろうということです。それで神の裁きを受けているに違いないというのです。さらに聖書を読み進めていきますと、この人が屠り場に連れて行かれる小羊に譬えられています。何も言葉を発しないまま、力なき者として、いのちを取られるのです。そしてここでも繰り返されます。彼は神の手にかかって殺された。罪人として、神の裁きを受けたのだと。

実はここで苦しんでいる人というのは、クリスマスにお生まれになったイエス・キリストを指し示していると信じられてきました。クリスマスと聞いて、馬小屋の飼い葉桶ですやすやと眠っておられる微笑ましい光景を思い浮かべるかもしれません。天が神の栄光によって光で満たされたように、華やかで楽しいことを思い浮かべる人もいるでしょう。でも、神様の愛とその栄光は、クリスマスにお生まれになったイエス・キリストの歩み、しかも苦難に満ち、最後には十字架にかけられ、陰府に下られた歩みの中で初めて見出されるものなのです。私たち人間が抱える苦しみや恥、汚れや破れ、空しさをすべて知っておられ、それらを御自分の身に負っておられるということ。ここにクリスマスの美しさ、神の愛の美しさがあります。

「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」とイザヤが語りますように、キリストの十字架の傷が、私たちの魂の傷を癒してくださいます。私たちが本来負うべき傷を、つまり、罪という死に至る病を主イエスがすべて負ってくださいました。ここに神と私たちとの平和が生まれたのです。このような救いの物語をまだ聞いたことがない方も多いことでしょう。だからこそ、教会に行って、聖書の言葉にぜひ耳を傾けてみてください。まだ知らない喜びの物語があなたの中に始まります。

※音声のアップは少し遅れます。

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