本国は天にある

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聖書の言葉

しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 3章20節

佐野結子によるメッセージ

先週に引き続き、家族の話になりますが、私の亡き父は、樺太生まれで、引き揚げ者です。樺太とは、北海道の北、ロシアのサハリンのことです。日露戦争後に日本の領土になり、その当時40万人もの方が住んでいました。1945年8月9日、終戦の直前に、旧ソビエト連邦の突然の参戦により、多くの民が、内地に避難しようと、南の大きな港、大泊という町に押し寄せました。自宅がその大泊でしたので、終戦の翌日に、引き揚げ船に乗ることとなります。女性と子どもが優先で、彼は、14歳、父を亡くしていた為、母の付き添いということで許されます。その旧ソ連の侵攻で、犠牲になられた方、数年間、その占領下で、忍耐された方、シベリヤへ抑留された方々が、多く証言されています。その翌年、引き揚げの労苦のために、母が急死します。多感な少年時代に両親と、故郷を一度に失い、その喪失感は、大きかったのです。

父の家は、水産物加工業を営み、当時はニシン漁が盛んでした。町並みは北海道の小樽に似ていたそうです。冬は長く、マイナス25度にもなり、吹雪があります。学校の長い冬休みには、そりや、スケート、スキーと、楽しい思い出もあります。父は、50代から俳句をはじめ、樺太の大きな地図を部屋にはって、樺太を回想した句集を作りました。大泊の港は、冬は完全に凍ってしまい、遠く沖まで、地続きに歩いていけます。その凍った港のことを、「凍港」と、有名な俳人、山口誓子が呼びまして、樺太の句集を出しております。父もその言葉を使って、俳句にしました。

「凍港や月下を過ぐる橇(そり)の鈴」

海が凍って地続きに行ける港に、冷たい月明かりでうっすらと照らされて、そりが、鈴をシャン、シャン、シャンと鳴らしながら通り過ぎる、銀世界です。身欠きにしんなど荷物を運搬するのに、馬そりや、犬ぞり、カラフト犬が使われました。

もうひとつ、望郷の思いが、込められている一句があります。

「われ去りし花野は雲のものならん」

花野とは、秋草が咲き乱れている野のことです。私は、故郷を去り二度と戻れない。いつも遊んでいたあのいとおしい野山に咲き乱れる美しい花は、空のはるかかなたの、手の届かない、雲のものだろう。もはや、だれのものでもない、天のものだろうと言っています。

ほんの70年前のできごとです。先人たちが開拓し、勤勉に働き、築いてきた、愛する町や我が家を、瞬時のうちに、無惨にも奪われ、生まれ育った母国に二度と帰れなくなった。内地とはいえ、知らない土地に、孤児となって移された。どこか、自分は、よそ者、寄留者、と感じていただろうと思います。

聖書には、「神は、孤児と寡婦(やもめ)の権利を守り、寄留者を愛して、食物と衣服を与えられる」とあります。神様は、寄留者たちを、特別に憐れみ、保護し、愛してくださるお方です。

さて、今朝の御言葉では、「わたしたちの本国は、天にあります」と言います。

神の御子イエスは、この奪い合う、戦いの絶えない世界を、ご自分の命を投げ出して、十字架におかかりになり、買い取ってくださいました。この救い主イエスを信じるものは、神の子どもたちとなり、神の愛する家族に入り、神の御国、その本国である、天の故郷に迎えられるのです。決して、奪い合うことのない、平和と愛があふれる居場所、永遠の、天の本国、故郷に、回復してくださいます。地上では、よそ者であり、寄留者であり、仮住まいの者であり、旅人のようです。戦争や災害のみならず、つらい思いを持つ、すべての者を、イエスは招いて下さいます。私たちの市民権、国籍は、天にある。私たちは、その御国の回復の途上にいて、完成を待ち望んでいます。

父は、80歳を過ぎてから、洗礼に導かれました。望郷の思いが、地上を超えて、天の本国へ向けられました。長い間、主イエスを戸口の外に立たせたまま過ごしてしまったと告白し、救い主イエス・キリストの御声を聞いて、心の扉を開いて、受け入れました。母がキリスト者で、ずっと祈っていました。

どうぞ、教会にお出かけ下さい。そこで、天の本国、天の故郷を、確かに望み見ることができるでしょう。

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