神の国の麗しさ

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聖書の言葉

神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった。

旧約聖書 創世記 1章31節

吉田実によるメッセージ

私は結婚して26年ほど経つのですけれども、結婚した年に年賀状で何げなく一年の出来事を漫画にして出しましたところ「続きを楽しみにしています」とおっしゃってくださる方が少なからずいらっしゃいまして、その後もやめられなくなってしまいまして、今日に至っています。ここ数年はお年頃の娘たちを漫画のネタのすることは恐ろしくて出来なくなってしまいまして、もっぱら息子のことをネタに書いています。もう何度もお話いたしましたように、わたくしの息子は重度の知的障害を伴う自閉症という障害があります。もう21歳になりました。自閉症者には独特のこだわりがあるのですけれども、最近の彼のこだわりは、同じものを2つ並べるということです。テーブルの上にはいつも同じコップが二つ、そして同じペットボトルが2本並んでいます。そしてなぜか、2枚残った食パンを食べようとすると、怒って奪い取るのです。その時の様子がまるで仲間を助け出そうとするかのような勢いと切実さですのでびっくりするのですけれども、彼にはそうせざるを得ない彼なりの必然性があるに違いありません。もしかすると同じものが2つ並んでいると仲良しに見えて嬉しいのかもしれませんし、「仲良しペアの友情を引き裂こうとするやつは、僕が許さない!」と思っているのかもしれません。今年の年賀状はそんな彼のこだわりの世界を漫画にしました。気になる方は「フェイスブック」で「吉田実」を検索していただきますとどなたでも見ることが出来ます。そんな自閉症者の不思議な世界をもっと観察すれば、面白い発見があるかもしれません。

たとえば「自閉症の僕が跳びはねる理由」という本を書きました東田直樹さんは、子供のころにご両親がお花見に連れて行ってくださってもよそ見ばかりして桜の花をちゃんと見なかったそうです。それで「花には興味ないのかなあ。こんなにきれいなのに。」とご両親は少しがっかりされたそうですが、実はその時直樹さんは、あまりにも桜の花が美しすぎて気絶しそうになるので、桜の花をまともに見ることが出来なかったのだそうです。つまり、お花に興味がないどころか、その時桜の花の美しさに一番感動していたのは直樹さんご自身だったのです。彼のブログでこの記事を読みまして、私はとてもうれしくなりました。私も息子も小さいころ同じようなことがありました。海に海水浴に連れて行っても、きれいな海や砂浜で遊ぶのではなくて、海岸の隅っこにある「ゴミやがれき」がたまっているところに行きたがるのです。「せっかくきれいな海に連れてきてあげたのに、なんでこの子はわざわざ『ゴミ』がたまっているところに行きたがるのだろう。自閉症児は美的感覚が鈍いのだろうか」などと思いました。でも、もしかすると鈍いのは彼ではなく私の方だったのかもしれません。彼は海のあまりの美しさに気絶しそうになって、ごみを見ることで心のバランスをとっていたのかもしれません。親バカかもしれませんが、そんな気がしてなりません。コップやペットボトルや食パンが二つ並んでいるだけで「仲良し」に見えるような優しさや、自然の美しさに気絶しそうになるような豊かな美的感覚が彼らには備わっていて、鈍くなっているのはもしかすると「健常者」と思っている私たちの方なのかもしれません。

最初にお読みいたしましたように、神様がこの世界をお造りになった時に「見よ、それは極めて良かった」と書かれています。この世界はもともと神様によって造られた「極めて良い世界」なのであって、それは極めて美しい、そしてみんなが仲良く暮らす極めて麗しい世界であったはずです。でも、最初の人間であるアダムとエバが悪魔の誘惑に負けて罪を犯してしまって以来、人間の心もこの世界全体も、本来の美しさや麗しさを失ってしまったのです。そしてそんな人間とこの世界を救うためにこの世に来てくださった救い主なるイエス・キリストは、「誰が一番偉いか」と議論をしていた弟子たちの真ん中に、人々から軽んじられやすい幼い子供を立たせてこうおっしゃいました。「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」。つまり、とかく人々から軽んじられやすく犠牲になりやすい、小さな弱い一人の人を「最も偉い者」のように大切にすることが、失われた神の国の麗しさ、美しさを回復するために外してはならない重要な道筋なのです。重い障害のある人たちに、実は健常者と呼ばれる私たちが失ってしまったような優しさや美しさに対する感覚が与えられているという不思議な事実は、このことを象徴的に指し示してくれているような気がしてならないのです。この続きはまた、来週お話いたします。

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