わたしは道である

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聖書の言葉

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 14章6,7節

望月信によるメッセージ

はじめまして。鈴蘭台教会の望月信と申します。ラジオ関西のキリストへの時間で、初めてお話させていただきます。わたしは、昨年7月に神戸市北区の鈴蘭台に参りました。神戸に来て驚いたことのひとつに、とても坂道が多く、また、住宅地の道がとても細いということがあります。神戸は六甲山地を後ろに控えた港町であり、とりわけ北区は六甲山地を越えた北側であり、起伏に富んでいますから、坂道が多くて道が細くなりがちなのは仕方がないことでしょう。来たばかりの頃は車の運転でたいへん苦労しましたが、最近では緑の豊かな風景を楽しめるようになってきました。

そんなある日のこと、細い道を車で走っておりましたら、小さなお子さんが飛び出して来て、少々ドキッとさせられることがありました。速度を出してはいけないなと、あらためて交通ルールの大切さを教えられた思いがいたしました。たとえば、車はとても便利なものですが、どこを走ってもよいというわけではありません。当たり前のことですが、道路以外のところを走ってはならないのであり、速度を落とすべきところではきちんと減速しなければならない、止まるべきところでは止まらなければなりません。もし車が道路以外のところを走ろうとするならば、たちまち混乱と事故のもとになってしまうでしょう。交通ルールがないならば、車は便利であるどころか、とても危険なものになりかねません。交通ルールは、車はもちろん、歩行者や自転車を含めて、私たち一人一人を危険から守るために定められています。ですから、決して私たちを縛り付けて、私たちを不自由にするものではなく、むしろ私たちを自由にするのであり、私たちの生活を支えているものなのだと言えるでしょう。

わたしは、神の御言葉である聖書の言葉、とりわけ律法や掟と言われるものは、その交通ルールのようなものだと思っています。掟とか決まりというと、なんだか人を縛り付けるもののような気がしてしまいますが、決してそうではなく、私たちの生き方や人生を混乱から守り、道を踏み外すことなく正しい道を歩むことができるよう、人生の方向性を指し示す働きをしているのだと思うのです。

主イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とおっしゃいました。主イエスが道である。それは、主イエスを見つめて、主イエスのあとに従うと、正しい道を歩むことができる。道を踏み外すことなく、確かな人生を歩むことができる、ということでしょう。主イエスは、ご自身のあとをたどって、確かな人生を歩むことへと、私たちを導いてくださいます。そのために、主イエスは、ご自身の御言葉、神の御言葉を私たちに与えてくださったのです。

それでは、主イエスのあとをたどって確かな人生を歩むとは、もう少し具体的には、どのようなことでしょうか。「わたしは道であり、真理であり、命である」。ですから、主イエス・キリストは道であるだけでなく、真理であり、命であられます。それは、主イエス・キリストに神の真理があるのであり、また、主イエス・キリストにまことの命があるということでしょう。その真理、また命を、主イエスはご自身の十字架において明らかにしてくださいました。主イエスは、私たちを愛する愛をあらわして、私たちの身代わりとして十字架につけられました。肉を引き裂かれ、血潮を流すことによって、私たちの罪を償うためのいけにえとなってくださいました。主イエスが十字架の御業によって私たちに示してくださったことは、私たちを愛する神の愛という真理であり、私たちを愛して私たちに命を与えるまことの神がおられるということにほかなりません。それゆえ、主イエスを道として歩む確かな人生とは、神の愛によって生かされる人生であると申し上げることができるでしょう。

私たちは神によって愛されてこの世に生を与えられました。そして、信仰者であろうとなかろうと、神の恵みを豊かにいただいて生かされています。生けるまことの神は、良い者にも悪い者にも太陽を昇らせ、雨を降らせるお方だからです。そして、とりわけ信仰者は主イエス・キリストの十字架の恵みを与えられ、罪を赦して救い出す神を知り、礼拝する幸いを与えられています。主イエスを道とすることによって知るものとされるまことの神、主イエスの父である神は、私たちに命を与え、私たちの人生を肯定し、積極的に支えようとしてくださるお方にほかなりません。何と素晴らしいことでしょう。

この愛の神を知ることによって、だれもが互いに愛し合う愛に生きることへと招かれています。そうして、自分の命を喜ぶだけでなく、共に生きること、命を与える人生を生きる者とされるのです。そこに、皆さんの確かな人生、幸いな人生があると申し上げることができます。交通ルールによって自分が守られていることを知っている者は、自分自身も交通ルールを守ることによって他者の命を守ろうとするでしょう。神によって愛されていることを知る者には、愛するという人生の方向性が指し示されています。この主イエスの示す道を、共に歩んで参りましょう。

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