求める者に良いものをくださる神
後藤公子
- 高蔵寺教会 元インドネシア宣教師
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「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。ましてあなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」
新約聖書 マタイによる福音書 7章9~11節
イエスさまは弟子たちに祈りについて繰り返し教えられました。祈りは信仰をもっている者にはだれにでも与えられている恵みの特権です。イエスさまは弟子たちが祈りを実践するように、と次のように励ましておられます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」
祈りには、それが、父なる神さまへの子どもとしての信頼に基づいているならば、確かな応答が約束されているのです。祈りは、単なるつぶやきでも気休めでもないのです。求めれば与えられるのであり、探せば見つかるのであり、たたけば開かれるのです。
私たちが求め、探し、たたく、その根拠になるのが、「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」という、主イエスの言葉です。このことを確信するとき、応答を得るまで、粘り強く、祈り続けることができるのです。そして、その確信は裏切られません。
人間の父親が、必要を求める子どもにどのように対処しているかを、例として挙げておられます。あなたがたのだれが、パンをほしがる自分の子どもに、石を与えるだろうか、そんなことはあり得ない、という意味です。おなかをすかしてパンを求めてくる子どもに、食べられない石など父親は与えるはずはないのです。また魚をほしがるのに、危険な蛇を与えるような父親はいないのです。
このように、父親が子どもに与えるのは良い物なのです。「あなたがたは悪い者でありながらも」と主は言っておられます。人間は本来は悪い者です。他人のことなど考えることができない利己的な者です。しかし、そのような父親であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っています。子どもを愛しているからです。
それに対して、神は100%善なるお方です。ですから、主イエスは「まして、あなたがたの父は、求める者に良い物をくださるに違いない」と言われているのです。神はそのご性質からして完全によいお方であり、霊の子どもを愛しておられるのです。
父なる神さまがどんなに良いお方であるか、それは御子イエスが人となられて地上に来られたことから、すでに明らかです。神さまが良いお方であり、私たちを愛して下さっていることを証明する十字架以上の証拠はありません。2000年前にすでに歴史の中で起きた出来事です。父なる神さまが、御独り子を惜しまず死に渡されたというその事実が、神さまがどんなに良いお方であり、私たちを愛しておられるかを示しています。十字架の出来事を思い起こすとき、それほどまでに、私たちを愛して下さっておられる父なる神さまに、私たちは確信を持って祈り求めることができるのです。
良い物をくださるに違いない、と言われている「良い」と言う意味は、必ずしも求める者の視点から見て良いものとは限りません。父なる神さまは、キリストの贖いを通して、子どもとして受け入れて下さった私たちに、人間の父親とは比べられないほどに良い物を与えて下さるお方です。神さまのご性質そのものが良いからです。そして、神さまが良いと判断されたものは100%良いのであり、測り知れない知恵をもっておられる神さまの判断ですから、そこにいささかの誤りはないのです。
人間の父親は、しばしば判断を誤ります。子どものために良いと考えて与えた物が、必ずしも良い結果をもたらすとは限りません。動機は良くても、人間の知恵には限界がありますから、判断を誤ることがしばしば起きます。しかし神さまは、完璧な知恵をもって、私たちに良い物を与えて下さいます。良いという判断にいささかの誤りもないのです。
私たちが限りある知恵で、自分に必要かつ良いものだと思って求めても、神さまの目から見て、それが良くなければお与えになられないのです。そしてその判断に誤りはないのです。神さまは、ご自分の判断に従って、私たちが考えていたものと違うものを、お与えになられることがあります。いずれにしても、父なる神さまの視点から見て良い物なのです。私たちの父なる神さまは、最高の愛と配慮をもって、子どもである私たちに良い物を備えて下さるのです。
与えて下さるといっても、私たちが求めているものを直ちにくださるとは限りません。その時、タイミングも、父なる神から見て最も良いときなのです。さらに、求めても与えられないこともあります。それも父なる神さまの誤りなき判断によって、与えない方がいい、と判断されたからです。その判断にいささかの誤りもないのです。
人間の父親は、能力的な限界があり、これは、子どものために良い物だと思っても、必ずしもそれを与えることはできません。親が与えることができるものには、当然のことながら限界があります。しかし神さまは万物の所有者であられ、すべてを支配しておられるお方です。ですから、御心なら、何でも私たちに与えることができます。私たちはそこに安んじて祈ることができるのです。神さまのなさることはいつも最善であり、神さまのくださる物は常に良い物なのです。