キリスト者から見た『家政婦のミタ』②

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聖書の言葉

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

新約聖書 ヨハネの黙示録 21章3~4節

藤井真によるメッセージ

前回と今回の2回にわたって、2011年にテレビで放映された「家政婦のミタ」を題材に取り上げてお話をしています。このドラマは女優の松嶋菜々子さん演じる家政婦の三田灯(みた・あかり)という主人公が、阿須田家という母親を失ったばかりの家庭に派遣され、そこで起こるいろいろな出来事を描くドラマです。

家政婦のミタは、ニコリともせず、まったく無表情で、主人から言われたことを「承知しました」と言って、言われたことは何でもしてしまいます。しかし、たった一つどうしても従うことができない命令がありました。それが「笑う」ということです。

笑うことができなくなったのにはミタが、愛する主人や子どもが亡くなってしまったたこと、そして家族が死んだのはすべてミタのせいだと親戚から責められたことなど、壮絶な過去が、彼女から笑うこと奪ってしまったのです。

そして笑顔を失った原因は、意思を持たないということと深く結びついていました。何かしようとすると周りが不幸になっていった過去の経験が、彼女から「愛する」という意思さえも奪い、誰かに愛されることさえも拒みました。誰に大事されれば、自分もその人たちことを愛してしまう。そうするとその人が不幸になるのではないか。そのように不安が積み重なっていき、愛することも、愛されることさえも恐れるようになっていったのです。

このドラマのテーマは、誰もが経験する悲しみ、喪失感とどう向かい合ったらよいのかということです。その時に、この世的に幸せそうな人が、「大丈夫だよ」と励ましてもその人の言葉を素直に聞くことがなかなかできません。

それよりも、色々な悲しみを経験した人が、痛み抱えている自分の傍らに立って、声を掛けてくれる方が慰めになるのです。ミタは、家族を失った悲しみ、愛することの恐さを深く知っている存在として、同じような問題を抱えていた阿須田家の人たちを一つにしていったのです。

私はキリスト者のひとりとして、このドラマを見ながら、主イエスこそ、まことの悲しみの人ではないかと思わされました。なぜかと言うと、主イエスこそ、私たち人間の悲しみを誰よりも深く知っておられるお方だからです。神であられるイエスが、人間になってくださったというのは、私たちの歩み、その歩みの中で経験する様々なことを共にしてくださるということでもあります。病に苦しむ者、愛する者を失った者、罪に悩む者、神がどこにおられるのか分からないと嘆く者をご覧になり、痛みを覚え、深く憐れんでくださいました。

主イエスは、この痛みをこの世界にお生まれになった時から経験しておられました。クリスマスによく歌われるうたに、「きよしこの夜」という賛美歌があります(讃美歌109番)。その3節に次のような歌詞があります。

きよしこの夜み子の笑みに

めぐみのみ代のあしたのひかり

かがやけりほがらかに

キリストの微笑みは、聖書に直接書いているわけではありませんけれども、この歌を作った信仰者が、豊かな想像をもって描いています。主イエスとその両親マリアとヨセフは、誰からも泊まる場所を与えられずに、家畜小屋に追われました。

でも、幼い主イエスが、飼い葉桶の中で微笑んでおられる姿をイメージしているのです。その幼子イエスの笑顔の中から神さまの恵みが支配する新しい時代の始まりが告げられ、そこから、曙の光が、明るく輝き出していることを歌うのです。

居場所を失い、喪失感や運命の虜となり、愛を恐れている人間の闇の中の闇に、主イエスは、まことの光として来てくださったのです。こんなところに神などいない、こんなところで微笑んでなどいられるかという底の深みにまで、神は降りて来られました。そういうところにありながら、まるでそこが本来のご自分の居場所であるかのように微笑んでおられるのです。この主イエスの微笑みが、私たちの歩みに平安を与えるのです。

また、悲しみとどう向かい合ったらよいのかということは、笑ってなどいられない状況の中でどう向かい合うか、ということとも深く関わってくると思うのです。疲れ切ったとき、辛い現実に取り囲まれたとき、そういう状況を笑ってごまかそうとしたり、笑い飛ばそうとして、楽しいエンターテインメントなどを見ることがあるかもしれません。一瞬でもいいから楽しく、面白いという感覚を取り戻したいと願うのです。

そのような笑いがわるいわけはありません。私も大好きです。でも、家政婦のミタが描こうとする笑いとは違うと思うのです。最終回で、ミタはついに笑顔を見せるのですけれども、彼女の笑いは大声を出してゲラゲラと笑うものではありませんでした。これまで笑うことができなかった彼女が、自分のことを心配し支えようとしてくれる阿須田家との交わりの中で、長い時間をかけて取り戻すことができた静かな笑顔、涙を流しながらの笑顔でした。

最初にお読みしたヨハネの黙示録の御言葉は、救いを完成させるためにもう一度この世界に主イエスが来られることを約束しています。その時に、何が起こるのかを、語っています。この世においては、涙することがたくさんあります。嘆かざるを得ないことがたくさんあります。神を信じて生きていても、愛する者を失い、この私もやがては死ぬ身であることに恐れを覚えることもあるでしょう。もし今、自分が立っている現実がすべてであり、確かだと思い込むと、微笑んでなどいられません。愛することにおいても、心配や不安のあまり、恐れを覚えるだけです。

しかし、そこに愛そのものであられる神がおられます。闇の中で、なお微笑んであなたを招いておられます。愛に生きようとする思いを邪魔する恐れに打ち勝つために、十字架で命をささげてくださった主イエスがおられます。そのお方の恵みに目を向けるとき、もう恐れることなく、この人のために、あの人のために精一杯、愛をもって生きようという意思をもって歩む道へと導かれていくのです。そして、やがて来てくださる主イエスが、この世の労苦を解き放ち、涙をぬぐってくださることを心に留めるならば、今、ここにおいても、静かに微笑んで生きる道が開かれるのです。

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