しあわせを見つける旅へ

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聖書の言葉

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」

旧約聖書 創世記 3章8~9節

藤井真によるメッセージ

ベルギーの作家メーテルリンクという人が記した「青い鳥」というお話があります。主人公のチルチルとミチルという兄弟が、幸せをもたらす青い鳥を捜して、妖精に導かれてあちこちを旅するというお話です。ふたりは色々なところを巡ります。しかし、青い鳥はどこにも見つかりません。それで、ついに諦めて家に帰ることになるのです。

けれども、驚くべきことに、それらはすべて夢の中で起こった出来事だったのです。翌朝、目を覚ましてみますと、自分たちが家で飼っていた鳥が、実は青い鳥だったのです。幸せの青い鳥は、実はすぐ身近な所にいるのです。私たちは幸せを求めてあちこち捜し回り、苦労するけれども、本当の幸せというのは私たちの手元にあるのであって、人間はそれに気付かないだけなのだ。だから、目をちゃんと開いて見れば、幸せがそこにあることが分かるはずだ。そのことをこの「青い鳥」は伝えていると理解されています。

ところが、「青い鳥」の結末をじっくり読んでみますと、どうもこのお話は、「幸せは近くにある」ということ以外にもっと深い問題を、読者に訴えているのではないかと思うようになりました。どういうことかと言うと、そもそもチルチルとミチルの兄弟が、青い鳥を捜しに出たのは、隣に住む病気の女の子を癒すためでした。旅から帰ってみて自宅で飼っていた鳥が青い鳥だったことに気付いたふたりは、早速その鳥を女の子にあげます。しかし、彼女に、その鳥に餌を与えるやり方を教えるためにカゴの扉を開けたところ、鳥は逃げてしまったのです。ですから彼らは、結局青い鳥を失ってしまうのです。

この物語は、チルチルが、観客に向かって、「誰か、あの鳥を見つけた人は僕たちに帰してください。僕たちにはあの鳥が必要なんです」と訴える台詞で終わっています。ですから、メーテルリンクが「青い鳥」によって語ろうとしているのは、幸せは身近な所にあるのに気付かないだけだ、という単純なことではないように思うのです。

身近な所に幸せがあったということに気付き、やっとそれを手に入れたと思ったとたんに、それは私たちの手からするりと逃げ去ってしまうのです。だから私たちの人生は、いつも、幸せの青い鳥を捜し求めて歩く旅なのだ、その旅には終わりがないのだ、ということを語っているように思えるのです。

幸せは、確かに遠くのどこかを捜すことによって得られるというよりも、案外身近な所にあるものでしょう。普段の何げない平凡な生活の中にこそ実は幸せがあるのに、私たちはなかなかその幸せに気付かない、それを幸せだと思えずに不平不満ばかりを感じてしまうのです。しかしその平凡な日常の有り難さに気付くなら、幸せを見いだすことができる。それは人生の一つの真理です。

しかしそれだけではないでしょう。むしろ幸せは、手に入れたと思ったとたんに手の中からするりと抜け落ちてしまうことが多いのです。あるいは、そういう不安が私たちにはいつもつきまとっているのです。今は幸せだと感じていても、その幸せがいつ失われてしまうか分からない、それを失ったらどうしよう、という不安が、幸せであればある程募ってきます。

だから、その幸せを守ろうと必死になります。苦労して幸せを得ても、その幸せを守るためにさらに苦労し続けなければならないのです。そんな矛盾の中を私たちは生きているのではないでしょうか。そして次第に、歩むべき道を見失い、迷ってしまう。幸せを得るためにどこへ行ったらよいのか、どちらの方向に進んでいったらよいのかが分からなくなってしまい、迷子になってしまうのです。聖書はそのような人間の姿を「失われたもの」と呼んでいます。

今日お読みした箇所は、神さまによって最初に造られた人間であるアダムとエバが、罪を犯してしまった場面です。彼らは、「木の実を食べれば、目が開けて、神のように善悪を知ることができる」という蛇の誘惑に負けて、「食べてはいけない」と命じられていた神さまの約束を破ってしまったのです。しかも、木の実を口にしても、神のように賢くなることなどできませんでした。幸せにはなれなかったのです。開かれた彼らの目が見たものは、自分たちがお互いに裸であることに気付いて恥ずかしくなっただけなのです。神さまから離れて自分が思い描いている幸せを手に入れようとする人間の姿は、恥ずかしいことでしかないのです。ああ、自分は何をしているのだろうかと、自分自身に失望してしまうのです。

でも、そんなアダムとエバを、また私たち失われた人間を捜すために、神さまは「あなたはどこにいるのか」と呼び掛けかれるのです。なぜなら私たちは皆、神さまのものだからです。だからご自分のもとから迷い出てしまった者を、必死になってお捜しになるのです。聖書は初めから「どこにいるのか」と、私たちを捜してくださる神さまのお姿が、神さまの御声が鳴り響いています。

本当の幸せは、私たちが色んな手を尽くして、捜し求めることによって得られるものではありません。そうではなくて、「どこにいるのか」という神さまの問いかけを聴くことから始まります。そして、その神さまは私たちを捜すために、私たちと出会うために、天の上からこの世界に来てくださいました。それが主イエス・キリストです。キリストがあなたを見つけ出し、神さまのもとに連れ帰ってくださるのです。そこには神さまの大きな喜びが満ち溢れています(ルカ15:5~7)。

新しい一年の歩みが既に始まっています。今年は、今年こそは、幸せな年にしたいと願いながら歩んでいることでしょう。しかし私たち以上に、神さまご自身が、私たちを見つけてくださるために、この年も歩みを重ねてくださるのです。神さまご自身にとっての幸いとは、ご自分のもとから離れ、自分を見失ってしまった者たちを見出すことなのです。しあわせを見つけるために、旅を続けてくださる神さまの御声が、この一年も豊かに与えられますように。

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