今、ここにあるわたし

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聖書の言葉

わたしはある。わたしはあるという者だ。

旧約聖書 出エジプト記 3章14節

藤井真によるメッセージ

女優の蒼井優さんという方のとても自然体な演技が好きで、私はよく彼女が出演している映画などを見ています。その中に「百万円と苦虫女」という映画があります。主人公は蒼井さん演じる鈴子です。彼女は短大を卒業したのですが、就職ができず、仕方なくアルバイトの生活を送っていました。しかし、どうにかしてこの生活から抜け出したい、そう考えていた最中のことでした。ひょんな事件に巻き込まれるのです。自分が大事にしていた捨て猫をルームメイトに勝手に捨てられて、その腹いせに、彼の持ち物、お金も全部捨ててしまったのです。彼女は罪を問われ、前科を負って生きることになりました。しばらくして、出所できたものの、友だちや近所の人たち、そして家族にまでも冷たい目で見られるようになり、町にも家に居づらくなったのです。

そこで鈴子は、思い立って、ひとり家を出る決心をします。「百万円貯めて出ていきます!」という言葉と共に、自分のことを知らない町に旅立つのです。百万円あれば、アパートを借りることができます。その町に住み、また働いて百万円を貯める。そしてまた他の町に引っ越しをする。そのような生活をしていこうというのです。ある時は海の家で、ある時は農家で、ある時はホームセンターで働いて、そのように場所を転々とします。

なかなか面白い生き方だと思います。正直、ちょっとそういう生活に憧れたりします。私は学生時代、特に遠い所に行ったこともありません。周りから無謀だと思われるような冒険を試みたこともない。どちらかと言うと、平凡で地味な生活を送っていました。若い時だからこそできるという言葉がありますけれども、まったくそれと関係のないような生活でした。そういう自分がちょっと嫌なところがあっただけに、鈴子のような生き方にハッとさせられます。

さて、鈴子がある町に着いた時のことです。そこで、のちに彼氏になる男性に出逢います。ある時、彼から「あなたがしていることは、自分捜しみたいなことですか?」と聞かれます。この男性にとっても彼女の生き方は魅力的だったのでしょう。けれども、鈴子本人は、周りから羨ましがられるような生活をしているという満足感はなかったようです。「自分捜しみたいなことですか」と聞かれて、彼女はこう答えました。「いや、むしろ捜したくないんです。捜さなくたって、嫌でもわたしはここにいますから。逃げてるだけなんです…。」「捜さなくたって、わたしはここにいる…」この映画のキーワードです。

自分を捜すことは、素敵な生き方だと思いますし、今の自分ではない新しい自分に憧れ、まだ辿り着いたことのない場所に向かって旅を続ける。周りから無茶だと言われようが、我が道を行って、ついにやるべきことを見出す。そういう生き方は格好よく見えるのです。

でも、鈴子は言うのです。自分を捜す必要などない。周りからは自分捜しをしているように見えるのですが、彼女はきっぱり違うと言います。「捜したくない。捜す必要などない。いやでも、私はここにいるから。」彼女が見ているのは、遠い先にある自分でも、過去の傷付いた自分でもありません。彼女は、「今、ここにいるわたし」を見ています。

案外、私たちは「自分捜し」と言いながら、実は逃げていることが多いことも確かなことだなと気付かされます。まるで、ここに自分がいないかのようにして、自分を捜す。そういう生き方が格好いいと思っている。でも、鈴子は、そんなことしなくたっていいでしょ、だって、いやでもわたしはここにいるのだから、それが偽りのない事実でしょ、なぜそのことに気付かないの、そう問いかけられるような思いでした。ここに大事なことがあるのではないでしょうか。それは、「今、ここにいるわたし」という事実を見ることです。今ここにいる自分の存在を愛することです。

この時の鈴子は、残念ながら、「ここにいるわたし」が嫌でした。映画のタイトルの「苦虫女」とあるように、苦い虫を噛んだ時にするような顔をして、生きていました。「ここにいるわたし」が大事だと気付きながら、逃げていました。でもある時、「逃げているわたし」と向き合うようになったのです。

それは、自分の生き方に憧れていた小学6年生の弟から送られてきた手紙がきっかけでした。弟は姉の生き方を、本当は逃げているといことも知らずに、尊敬していたのです。その弟から、今、学校でいじめられていることを告白されます。でも、僕はお姉ちゃんを見倣って、逃げずに戦っていくというのです。でも、真実はまったくの反対だったのです。逃げていたのは姉の自分であるにもかかわらず、その真実を知らずに、自分を尊敬し、苦しみながら学校で戦っている弟の姿に耐えることができなかったのです。愛する弟を裏切っている自分に気付かされ、そこではじめて、涙と共に、今の自分と向き合うことができるようになったのです。

最初に御言葉を聞きました。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」ここに、今の自分と向き合うことができる言葉があります。神さまはとても不思議な自己紹介をなさいます。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」神さまは、ここで自分の名前を言うわけでもありません。わたしはこれこれで、こういう者だと、長々と説明するのでもありません。「わたしはある。わたしはある。」そのことだけを告げたのです。それで十分だったのです。わたしはここにあるということを、神さまは誰よりも自信をもって、私たちの前で告げてくださいます。

あるカトリックの神父の方が、この御言葉が大好きだと言います。その理由について、彼は短くこう言うのです。「『わたしはない』という闇に沈んでいたときに、神が『わたしはある』と宣言してくださった。救われた…。」慰め深い言葉です。この神父のように、「わたしはある」というこの神さまの言葉を聞いたことがあっただろうかと、驚かされました。神さまは、ただおひとりであろうとするのではないのです。あなたを救う神となるためにあろうとしてくださいます。嫌な過去と手に入れることのできない理想の狭間で苦しんでいるあなたを救うためです。今、「わたしはない」と思っておられる方があるかもしれません。しかし、神は今日も「わたしはある」と宣言してくださいます。「わたしはない」と苦しんでいるあなたが、「わたしはある」と喜ぶことができるように、神さまはあなたといつまでも共にあるのです。

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