命の光を持つ

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聖書の言葉

イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへいくのか、わたしは知っているからだ。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章14節

金原義信によるメッセージ

主イエスはこう言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」イエス様はご自分のことを「世の光である」と言われます。この世にあって私たちが生きる道を導く光である。これはとても強いイエス様のご自分についての主張です。この方に従うなら、あなたは命の光を持つ。ここでいう命は、地上の命というよりも、永遠の次元での命、つまり神に祝福されてこの世においても、死んだ後も永遠に神と共に生きる命です。この永遠の命を持たせて下さる。そのようなお方としてイエス様はご自身を証しされたのです。

ところがイエス様のご自分についてのこの証しに、ファリサイ派の人達は反発しました。その理由は、二人が行う証しは真実である、というきまりです。今日常識的にもこの考え方は理解できるだろうと思います。本人が自分はこういうものだといくら言っても、それが本当かどうかは複数の人が確かにそうだと証言しないとやはり信用できないでしょう。

ところがイエス様はご自分に関してはそのきまりは当てはまらない。ご自分がご自身について証しをしてもそれは充分真実だと言われる。なぜでしょうか。そこでさきほどお読みした14節の言葉なのです。「自分がどこから来たのか、そしてどこへいくのか、わたしは知っているからだ」。ご自分がどこから来てどこへいくのか私は知っている。イエス様は神から来られて神のもとへお帰りになります。

ところで自分がどこから来てどこへ行くのか、これは私たち自身はどうでしょうか。この言葉はとても深い意味をもった問いです。あなたは自分がどこから来てどこへ行くのか知っていますか、と尋ねられたら、皆さんは何と答えるでしょうか。あるいは自分で充分納得のいく答えを持っておられるでしょうか。私たちは幼い頃の記憶がありますが、それ以前の事は覚えていません。将来のことも、自分がどうなるかなどはっきりは分かりません。こうなりそうだというのは言えるけれど。また確かに親から生まれて死んだら塵になる。自然に帰る、こういうことは出来るかも知れません。けれども私たちの心は、魂は、そんな体のことだけの答えで満足出来るでしょうか。やはりもっと深く、自分はどこから来たのか、どこへ行くのか、知りたいけれどもそう簡単には分からない、というのが本当のところではないでしょうか。それは自分が今ここにいることの意味、その基盤を問うことになるからです。さらに私たちは今のことだって知っているといえるでしょうか。忙しく毎日過ごしながら、自分のやっていることが徒労に終ることもある。その意味が分からなくなることがある。疲れを覚える。あたふたとしながら、自分は一体何をやっているんだろう、そんなふうに思うことはありませんか。

そうやって考えると、私がどこからきてどこへ行くかを知っている、というのは、私たちにはそう簡単に答えられるものではないことが分かります。生涯かけて考え捜しても、満足の行く答えは見出せないのかも知れない、そう思いませんか。

その答えが見つからなくてどうしようもなくなったとき、あるいはあきらめたとき、実は自分自身の生きる意味を見失ってしまうのではないでしょうか。悪くすると、どうせ意味の分からない世界と自分なら、どうにでもなればいい、とさえ思ってしまう。自分自身を粗末にし始める。当然隣人のことなどどうでもよくなってしまう。そこに人間がかかえる闇があるのです。

だから、私がどこから来てどこへ行くかを知っている、と言い切ることが出来るというのは大変なことなのです。それを主イエスははっきりと断言なさったのです。こんなことが出来るお方は人間の力を超えたお方に違いありません。そしてそのようなお方だからこそ、私たちを導く世の光なのです。このお方がいつもそばにいて下さる、私がこのお方に結ばれているなら、私たちは闇の中を歩くことはない。神に生かされ、神の愛に支えられて生まれ、今、神の恵みを受けつつ生きて、やがて神のみもとに帰っていく、そういう自分を知ることが出来るのです。

そこでみつける自分は、神に愛され、神の祝福された命の光を持って今生きるものとされているのです。とても大切な、神によって意味あるものとされたひとりひとりなのです。

この主イエスを私の救い主として信じて生きるようにと心からお招きします。

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