父となってくださる神

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聖書の言葉

あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章15節

金原義信によるメッセージ

今朝は、私たちが信じる神様が、どのようなお方であられるかをお話します。

キリスト教信仰の一番大切なところを要約した文章に使徒信条があります。その初めに「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」とあります。聖書が語る神は、この天地、つまり世界と、そして私たちをお造りになった全能の神である、というのです。

このような神様を信じるということは、この世界とそこに生きる私たち自身が、何によって存在しているか、その基盤が神様にあるということを信じることになります。この私がどうしてここに今いるのか、それは単なる偶然や、運命という得体の知れないものではなくて、神様の意志によるのだ、ということ。自分がここにいることにははっきりした神の意志があるということです。

それなら、その神様の意志は私に対してどのような意志なのでしょうか。好意的かそうでなくて敵対的なのか。何のために私をここに今生かしておられるのか。単にわけのわからない運命でもてあそぶだけなのか。

どうしてこんなことをいうかと申しますと、私たちの人生には意味のわからないことや、神がいるならどうしてこんな目にあうのかと思いたくなるようなこともあるからです。神がいるとしても、とても自分に味方してくれているとは思えない、神は自分を冷たい目で見ているのではないか、それどころか私を見捨てたのか、そう思えて心が冷えてしまう経験をすることがあるのではないか、と思うからです。もしそうなら、私たちはとても不安です。しかも相手は神ですから逆らえない、従うほかない、ということになります。それは丁度、奴隷が愛のない主人をこわがりながら、逆らえないから、びくびくしながら、言うことを聞いているようなものです。そこには自由も喜びもありません。恐れを抱くだけです。

けれども神の霊が働いて、私たちの心を開いて下さるとき、聖書が語る神様はそのような方ではなく、私たちを愛して下さっていることがわかります。さきほど述べた不安や恐れというのは、神がいるかどうかと考えなくても、人が生きていくときに感じる漠然とした不安や恐怖という形でのしかかってくるものです。この不安や恐怖は、実は神様に愛されていることを信じないことからくるものです。つきつめるとそれは神から離れ、神から見捨てられることなのです。けれども神の御子イエス・キリストは、私たちの代わりに神に見捨てられる経験を引き受けて下さいました。それが、キリストが十字架で死なれたことの意味です。これは、神が私たちを愛しておられるから起こった出来事です。天地を造られた全能の神様の意志は、私たちが神様に愛されていることを知り、平安を得て神様と共に生きることにある、ということを示して下さったのです。

神の霊は、この神の愛に私たちの心を開いて下さるのです。あなたは天地を造られた全能の神の意志によって今この世に生きている。その神の意志は、あなたが神に愛され、神を父と呼んで生きるためなのです。このことに目覚めたとき、私たちは神を喜んで父よと呼ぶことができます。神様のことを考えるとこわくなったり不安になったりするのではなくて、この私の人生は、神に愛され導かれているんだ、そう信じて心を温められ、喜ぶことが出来るようにされるのです。

ここで「アッバ」ということばがでてきます。これは父を呼ぶ言葉ですが、かしこまってかたくなって、改まって呼ぶ言葉ではありません。警戒心をもって恐る恐る呼ぶ言葉でもありません。まったく信頼しきって親しみを込めて呼ぶ言葉です。幼い子どもが両手を広げてお父さんのふところに飛び込むときに呼ぶ言葉「パパ」、「おとうちゃん」にあたる言葉です。そのように天地を造られた全能の神を私の父と呼ぶことが出来るように、神様の霊が私たちを導いてくれるのです。

神様を「お父さま」と呼ぶということは、私たちが神の子とされたということです。神の子とされたということは、父なる神の財産を受け継ぐ権利を持つものとされるということです。それは天の御国を受け継ぐものとされるということです。エフェソ3:19「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ち溢れる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」神の満ち溢れる豊かさのすべて、今の私の知識をはるかに超えた神の豊かさを知るようにされるのです。

このすばらしい約束をして下さる父なる神を信じていきましょう。

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