映画と信仰

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聖書の言葉

そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。

新約聖書 マタイによる福音書 20章30~31節

赤石純也によるメッセージ

この聖書の箇所ではイエス・キリストに向かって「私たちを憐れんでください」と叫んでいます。タルコフスキーという映画監督はその最後の映画で、この「憐れんでください」という言葉をひたすら歌い続ける音楽を使いました。タルコフスキーは旧ソ連の映画監督でしたが、最後の映画『サクリファイス』はスウェーデンで撮りました。北方特有の、昼間でも白夜のような、何か非常に不思議な、美しい映像になっています。光る海を背景にして、砂利地に草が生えている。 痩せた地面です。そこに一本、枯れ木が立っている、そんなオープニングです。そこに「神よ、憐れんでください」と歌う、こういう音楽が流れています。どうぞお聞きください。

♪音楽♪

「神よ、私を憐れんでください」これだけを繰り返していきます。タルコフスキーは最後の映画サクリファイスの冒頭のシーンとラストシーンで、この歌を延々と流し続けるのです。

海辺にぽつんと一軒の家が建っています。ある日、食器棚がかたかた言い始めたかと思うと、牛乳を入れた水差しが落ちて砕け散ります。画面いっぱい真っ白に牛乳が広がります。戦闘機が飛んでいく音が聞こえます。核戦争が始まったのです。家の向こうの方には痩せた松の木がまばらに生えています。その根元に寄りかかっ てお爺さんが懐に小さな子を抱いて、その子にルブリョフの画集を見せてあげています。一枚一枚ページをめくっては、お爺さんはため息をつきながらキリストの絵をなでるようにしている。見せてもらっている男の子は首に包帯を巻いていて、声が出せません。この男の子が、毎日バケツで、あの枯れ木のところまで水を運んで掛けてやるのです。

カメラが家の中に移ると、壁に大きな絵が掛かっている。東方から来た学者たちが幼子イエスを礼拝している絵です。跪(ひざまづ)いて、大きな手を地面について、老人たちがこの幼子を見上げているレオナルド・ダ・ヴィンチの絵です。幼子の背景には緑濃い一本の木が立っています。聖書の創世記に出てくる命の木です。その木の向こうの方では馬が後足立ちになって戦争の場面のようです。実はこのダヴィンチの絵をタルコフスキーはそのまま映画にしているのです。背景に核戦争があります。命の木は、まったくみすぼらしい枯れ木になってしまっている。そういう映画なのです。声が出せない男の子が、枯れ木に毎日水を運んでやっているのは、命の木を生き返らせようとしているのです。背景では延々と「憐れんでください、この涙ゆえに」と歌っている。何ともいえない強い力を持った映画です。

タルコフスキーはこの『サクリファイス』という映画を残して亡くなりました。最後の字幕にはこう出てきます。「希望と確信を持って/息子に捧げる」。この映画はタルコフスキーの遺言なのです。ダヴィンチの絵で、東方から来た人がキリストを礼拝していたように、東方から来たタルコフスキーがキリス トを礼拝しているといってよい映画です。ダヴィンチは世界は戦争の世界であると描きました。しかしあの東方の学者たちがキリストを礼拝するためにやってきたその 場所に命の木があると描きました。東方の人タルコフスキーも西に出て来て、この世界が核戦争の世界であることを描きました。あの命の木はどうなったのか。 枯れ果ててしまっている。しかし私はその枯れ木にバケツで水を運び続ける、それがタルコフスキーの映像人生という捧げもの、サクリファイスだったのですね。タルコフスキーの遺言はこうです。あなたがたは命の木を枯らしているのではないのか、しかしキリストこそ、緑濃い命の木に他ならない。世界は殺し合いの世界だけれども、私たちが礼拝に集うとき、それは確かに命の木の元に集うことなのだ、救いとは何なのか、私たちの希望とは何なのか。それは私たちがこの命の木の元に集うことしかないではないか。私は「希望と確信を持って」このメッセージを子供たちの世代に捧げる、これがタルコフスキーの遺言です。それではもう一度、その音楽「憐れんでください」を聴きましょう。

♪音楽♪

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