クリスマスの喜び

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聖書の言葉

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝んだ。

新約聖書 マタイによる福音書 2章9節-11節

李東隼によるメッセージ

朗読しました箇所はクリスマスの度に思い起こす有名な東の国の博士たちの話です。「東の国」とは,バビロニア、ペルシャという国々だと思われます。今で言うと中東のイラン、イラクの地域です。そういう地域から博士たちが、救い主の誕生を知り、エルサレムへの旅に出ました。この博士たちは「星占い」をする学者たちです。但し、日本で占い師がやるような占いではなく、王様がいる宮廷に仕えて、国の政治に関わる人々です。当時は、今のように、人工衛星もなく、テレビやラジオの天気予報もない、インターネットもない時代です。星の動きや雲の様子などを見て災害を防いだり、国の政策を決めたりしていました。これは相当な技術が必要です。博士たちは毎日星を見ていました。ある日、不思議な星が現れました。とても輝く星が昇るのを見て救い主がお生まれになったことを知り、エルサレムへの旅に出ました。おそらく数百キロある長い旅をしてエルサレムに着いたと思います。しかし、彼らはエルサレムに着いたものの、正確に救い主がどこでお生まれになるのかは、まだ分かっていませんでした。それで彼らはヘロデ王の元で聖書に詳しい学者たちから救い主がベツレヘムでお生まれになるという聖書の言葉を教えてもらいました。それで、彼らはベツレヘムに向かって進みました。学者たちにイエス・キリストの所在を正しく教えたのは聖書の言葉です。聖書に導かれて、彼らは再び救い主を目指しました。救い主の到来については、聖書に予め書き記されているからです。このことは、私たちにも当てはまります。悩み多い人生の旅路を正しく豊かに導いてくれるのは聖書の言葉です。学者たちは、御言葉を聞いてさらにベツレヘムに向かって進みました。すると、東の国で見た星が彼らの前を進みました。そして、その星が、主イエスのおられる居場所の真上に止まった時、彼らは喜びに溢れました。「喜びに溢れた」という言葉は「巨大な喜びを喜んだ」というふうに訳せる言葉です。私たちは、小さな数々の喜びを味わいながら,日々を過ごしています。しかし、大きな喜び、生きてきたのは、この為だった、そう言えるような喜びを私たちは知っているでしょうか。東の国の学者たちが味わった大きな喜びは、イエス・キリストに会う喜びでした。どうして、学者たちは喜んだのでしょうか。この喜びには二つの意味があります。一つ目は星の導きによる喜びでした。彼らは東の国で救い主の誕生を示す星を見ました。その星に促されて、長い旅をし、やっとエルサレムにたどり着いたのです。そして、再び、その星が現れて、彼らの旅を励まし、導いてくれたので、その星を見て自分たちの旅が間違っていなかったことを知り、「喜びに溢れた」のです。彼らが見た星は「神様の導きの現れ」だったのです。韓国の私の家族の話ですが、キリスト教とは全く縁がない家族でした。しかし、私が中学校2年生の時に、友達に誘われて、教会に通い始め、私が洗礼を受けると、母、祖母、妹、父が、洗礼を受け、クリスチャンホームになりました。今は祖父、祖母の命日に法事ではなく、家族で家庭礼拝をしています。私にとっては中学の友人が神様の導きの現れだったのです。神様の導きによって私の家族はイエス・キリストに出会ったのです。これは大きな喜びです。これは私だけではなく、皆さんもそれぞれ神様の導きを思うならば、喜ぶ事ができるのではないでしょうか。

博士たちが味わった、二つ目の喜びは礼拝をする喜びでした。

東の国の学者たちが遠い国から長い旅をしてエルサレムに来た目的、それは、イエス・キリストを礼拝するためでした。博士たちはエルサレムに住んでいる人々にこう言いました。「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」「拝む」という言葉は礼拝する意味です。彼らが捧げた最初の礼拝は、立派な会堂はありませんでした。貧しい民家の中で、10人か20人が入れば、一杯になるような場所で最初の礼拝を捧げました。 出席者も少なかったと思います。今日の箇所には、マリヤと幼子、そして、東の学者たちだけが記されています。もしかすると、ヨセフと東の国から同行した何人がいたかもしれません。最初の礼拝は、貧しい場所で、少ない人数で礼拝を捧げられたのです。しかし、そこには喜びがありました。どうして喜びがあったのでしょうか。イエス・キリストが共におられたからです。クリスマスの日にお生まれになった救い主の名前は「インマヌエル」、「神は我々と共におられる」という意味です。この約束の言葉がクリスマスの日に実現したのです。学者たちの最初の礼拝には、説教がありませんでした。しかし、イエス・キリストの存在がメッセージでした。神様の独り子が天の栄光を全部投げ捨てて、一緒にいてくださるというメッセージでした。どんな悲しみの時も一緒にいてくださる。自分の罪に気づいて、自分はダメだと思う時も、イエス様は私たちの罪を赦して、一緒にいてくださる方です。インマヌエル、神は我々と共におられる、この方を礼拝する事が巨大な喜びだったのです。来週はクリスマス礼拝です。喜び溢れるクリスマス礼拝を迎えられますようにお祈りいたします。

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