絵画と信仰

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聖書の言葉

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章12節

吉田実によるメッセージ

今回は最近まで京都で開催されていました、ルーブル美術館展に展示されていた作品をご紹介したいと願っています。今朝ご紹介いたしますのは、ラ・トゥールという画家が描いた「大工ヨセフ」という題の作品です。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、17世紀前半のフランスで活躍した画家で、「夜の画家」とか「光の画家」というニックネームで呼ばれるほど、「暗闇の中の光」というテーマを追求した画家です。暗闇と光の画家といえば、なんと言ってもレンブラントが有名ですけれども、このラ・トゥールも、ドラマチックなレンブラントとはまた一味違う、静かな暖かい光を通して、精神的な深みを表現した画家です。この大工ヨセフという作品も、全体に暗闇が覆っています。その中で、道具を使って黙々と、角材にほぞ穴を開ける作業を続ける父親のヨセフの手元を、少年イエスがろうそくの火の光で照らして、お父さんのお手伝いをしている。そういう情景を描いた作品です。この作品でなんと言っても印象的なのは、暗闇の中に照らし出された少年イエスの明るく輝くようなその顔です。少年イエスは右手でろうそくを持って、左手でその炎が消えないように覆っています。ですから、この絵を見る者からすれば、本当はこの画面の中で一番明るいはずの光源であるろうそくの炎が、少年の手で覆われて見えないのです。ですから、そのろうそくの光で照らし出されている少年イエスの顔そのものが、まるで光源であるかのように最も明るく光を放っているのです。そのお姿は、やがて救い主として「私は世の光である」とお語りになったイエス様のお姿を象徴的に表しているように見えます。一方、父である大工ヨセフは、暖かいまなざしを息子に注ぎながらも、その目には一抹の不安も感じられます。そしてその父ヨセフがほぞ穴を開けている角材は、十字架の一部のようにも見えます。つまり、この大工ヨセフの姿は、やがて十字架につけられるイエス様の将来をさりげなく暗示しているのです。そして、そんな父の作業をろうそくの光で照らす少年イエスの左手が、ろうそくの炎を覆って、その光が幼いイエス様の指を透かして赤く見えている、その手の表現が、大変印象深く私の心に残っています。この手には確かに、赤い血が流れている。そしてやがてこの手には、すべての人の罪を背負い、贖(あがな)う者として、太い釘が打ち込まれるということを私たちは知っていますから、その赤い血潮が透けて見える少年の優しい手が、よりいっそう印象深く見えるのだと思います。そしてこの少年イエスの明るく照らし出された顔をよく見ますと、その口がかすかに開いて、父ヨセフに向かって何かを語りかけているように見えます。何を語りかけているのか、そもそも作者のラ・トゥールがそういうことを想定していたかどうか、それは知る由もありませんけれども、私は一人の信仰者、鑑賞者として、こんな想像をいたしました。少年イエスは、不安そうな父ヨセフに言った。「心配しないでお父さん。私は、自分がどこから来て、どこへ行くのか、知っています。私はこうやって、暗闇を照らすために来たのです。」

どこを見ても希望を見出すことが難しい深い暗闇が、この世界全体を覆っているように見えます。また人の心の暗闇は、世の中が便利になればなるほど、逆に深まっているようにも思えます。このような暗闇の現実の中に生きる私たちに向かって、イエス様は今も御言葉をもって語りかけてくださいます。「私は世の光です。私に従うものは、決して闇の中を歩むことがなく、命の光を持つのです。」神であるにもかかわらず、人を暗闇の支配から解放し救い出すために、真(まこと)の人となってこの世に来て下さり、人の身代わりとなり、私たちの罪の責任を全部背負って十字架のうえで命をささげてくださった救い主は、その命をかけた愛の光で、私たちの歩む道を照らし出してくださいます。この光なるお方を見あげて、このお方の光の中で一つ一つの出来事を見つめて、このお方に従ってゆくときに、私たちも命の光を持つことができる。このお方の愛の光を反射し、輝かせながら、世の光として歩むことが出来るようになる。ラ・トゥールのこの作品は、そのような光の中に私たちを招いてくれているのではないか。そのように、私には思えるのです。

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