生まれたときから背負ってくださる神様
寺川和宏
- 奈良教会 定住伝道者
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わたしに聞け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。 あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。
旧約聖書 イザヤ書 46章3節
おはようございます。わたしは奈良教会の定住伝道者の寺川と申します。宜しくお願いいたします。今週と来週は2回に分けて、旧約聖書イザヤ書の御言葉より学ばせて頂きたいと思います。
さて、みなさまは何か問題が起こって困ったときには、何に頼っているでしょうか。私事で恐縮ですが、わたしがキリスト教会に行き始めたのは、30歳を過ぎてからでした。それまで主イエス・キリストを知らなかった、わたしは、職場の上司より、仕事の基礎は教えられたのですが、よく、自分自身で考えなさいとか、自分自身で何とかしなさいと言われていました。
今になって考えてみると、上司としては、わたしを少しでも、成長させたいという思いがあったのだと思います。しかし、当時のわたしは、とにかく、上司に言われた通り、自分で何とかしなければならないという思いから、日々、どうしようかと焦りながら、悩んでいたように思います。
しかしながら、焦りながら、自分なりに何とかしようと悩んだり努力をしても、なかなか上手くはいきませんでした。当然ながら、失敗をしてしまい、上司に怒られては、落ち込んで、さらに焦ってしまうというような悪循環の中にいたように思います。
つまり、この頃のわたしが、頼っていたものとは自分自身の知恵や力であったということです。しかし、自分自身の知恵や力には限界があるため失敗も多く、とても頼りになるものではありませんでした。このため、日々、焦りと恐れが支配をしていて、心の平安がなかったように思います。
それでは、本日のイザヤ書に出て来る、イスラエルの民は、何に頼っていたでしょうか。少し前の節で、イスラエルの民は、「わたしに聞け」と命じられている、主なる神様ではなく、「ベル」や「ネボ」といった当時のバビロンを代表する偶像に頼っていたのです。
このようなバビロンを代表する偶像に頼っていたイスラエルの民に向かって、主なる神様は、偶像には人間を救う力はなく、人間に担がれるだけのただの像であると教えておられます。
確かに、像には、歴史的な価値などあるかも知れません。しかし、わたしたちが悩んだり苦しんだりしているときの救いにはならないのです。
これに対して、「わたしに聞け」と命じられる神様はどうでしょうか。偶像のように人間に担がれるだけの存在とは正反対に、神様は、わたしたち一人ひとりが生まれた時から、母親の胎から出た時から、すでに、愛をもって背負っているのだと教えておられるのです。
さて、わたしが教会に行き始めてからですが、特に、職場の環境に何か変化があったわけではありませんでした。しかしながら、何か月か教会に通う中で、徐々に、仕事に行く前に、短く祈るようになりました。もちろん、教会に行き始めたばかりで、祈り方も知りませんから、ただ、「父なる神様、わたしを助けてください。守ってください。アーメン」と祈ることしか出来ませんでした。
しかしながら、これまで、職場の中で、自分自身しか頼りにすることが出来なかった、わたしが、教会に行き始めてから、父なる神様を頼るようになったのです。つまり、すべてを創造された創造主なる神様を、父と呼んで、祈り、頼ることが出来るようになったということです。
ここで、「ただ、神様に祈ることが出来るようになっただけなのか」と思われるかも知れません。しかし、当時のわたしにとっては、神様に祈って、頼ることが出来るということが大きな喜びだったのです。それと同時に、頼りにならない人間である自分自身ではなく、神様に頼ることが出来るのだと思えることが、わたしの心の支えとなり、救いとなりました。
それだけではなく、本日の聖書の御言葉より、神様御自身が、わたしたちが生まれたときから、母の胎を出た時から、すでに、愛をもって背負っておられたことを知る事が出来ました。
つまり、わたしたちが神様を知り、頼ろうとする、はるか前から、すでに、神様は、わたしたちを背負っておられたということなのです。大切なことは、わたしたちが、今まで、気付いていなかっただけで、すでに神様より背負われ、神様より愛される存在であったということです。
最後に、宗教改革者カルヴァンが、信仰をもつことについてこのように教えています。
「信仰をもつということは、動揺したり…ためらったり、とまどったりするのではなく、絶望せずに、いつでも強く確信と信頼をもって、依り頼む場所をもつことである」と言います。
わたしたちにとって、動揺したり、絶望したりせずに、いつでも、確信と信頼をもって、頼ることの出来る御方とはどなたでしょうか。
それは、偶像でも、自分自身でもなく、わたしたちが生まれたときから、母の胎から出た時から、わたしたち一人ひとりを愛をもって背負っていてくださる、主なる神様だけです。
主イエス・キリストは、わたしたちが、神様の御心に逆らうという罪の贖いのために十字架に掛かられました。それは、わたしたちが、唯一、確信と信頼を持って、頼ることが出来る、父なる神の子供となるためです。どうか、一人でも多くの方が、主イエス・キリストを信じて、キリストを通して神様を愛を知り、本当に頼ることの出来る御方に出会って頂きたいと心から願います。