排除ではなく、交わりに生きる

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聖書の言葉

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 3章28節

弓矢健児によるメッセージ

使徒パウロが、この聖書の言葉を記した時代、ギリシア人たちは、ギリシア文化の優越性のため、自分たちを優秀な民族であると考えていました。一方、ユダヤ人からするならば、自分たちこそ神の選民であり、ギリシア人をはじめ異邦人は汚れた民族だと考えていました。また、当時は奴隷制社会ですから、奴隷の身分の者と、自由な身分の者とでは全く住む世界が違いました。当時の人々にとっては、そのような区別や差別は当たり前の事でした。

日本でも最近、「日本人ファースト」という言葉が、政治や社会の中で頻繁に聞かれるようになりました。それは一見、当然のように思えるかもしれません。しかし、その背後には、他者を排除し、異なる文化や背景を持つ人々を「よそ者」と見なす風潮が潜んでいないでしょうか。聖書はこうした分断や優越意識に対して、まったく異なるビジョンを示しています。聖書が教えている本来の人間の生き方、とりわけキリスト者の生き方は、そのような差別や排除ではなく、交わりに生きることです。

イエス・キリストはそのことを、ヨハネによる福音書15章では、「ぶどうの木と枝のたとえ」によって教えています。キリストがぶどうの木であり、私たちは皆、その枝です。私たちはイエス・キリストにあって、もはや、ユダヤ人もギリシア人もありません。国籍や民族の違い、社会的身分の違い、男女の性の違いもありません。キリストの御前では一切の差別や区別はないのです。それどころか、イエス・キリストは、人間の罪によってこの世に生じた、あらゆる差別を御自身の前で完璧に打ち砕かれるのです。それがイエス・キリストを信じ、救われるということです。それが、キリストの愛において、私たちが違いを超えて、一つになるということです。

今でこそ、私たちは、すべての人が平等であり、すべての人に基本的人権があるということを、当然のことのように受け入れています。けれども、そのような主張は、当時のユダヤ社会の中では、またローマ帝国の支配する社会の中では、非常に驚くべき主張でした。もちろん、パウロは奴隷解放運動を行ったわけではありません。パウロはあくまでも当時の社会制度を前提として語っています。けれども、パウロが語っている、すなわち聖書が語っている言葉、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」という言葉は、様々な差別や不平等を正当化している社会の現実を、その内側から打ち砕いていく力を内に秘めているのです。

それはまず教会の中で現れて行きます。そのことは、パウロが書いたフィレモンへの手紙からも分かります。フィレモンは裕福なクリスチャンで、奴隷所有者でした。しかし、フィレモンの下で奴隷として働いていたオネシモが、どういう理由かは分かりませんが、脱走してパウロの所に逃げてきたのです。当時、逃亡奴隷は死刑になってもおかしくはありません。しかし、パウロはオネシモをフィレモンの下に帰すにあたって、もはや彼を奴隷としてではなく、愛する兄弟として扱って欲しいと強く願うのです。こうして教会の中で、徐々に奴隷制は意味を失っていくのです。

また、初代教会にはフィリピの町のルディアのように指導力のある女性の奉仕者・伝道者もいました。当然、多くの教会にもそのような女性たちがいたことでしょう。人種差別、階級差別、男女差別が当たり前の社会の中で、しかし、キリストへの信仰によって始まった教会は、そのような差別の現実を打ち砕くキリストの恵みの中を歩み始めたのです。

もちろん、私たちの中にも、教会の中にも、この世界の中にも、今なお罪があり、差別があります。決してキリストにある真の平等性が、この世界で完成しているわけではありません。民主主義や人権尊重、ジェンダー平等が言われながらも、現実には様々な差別があり、ハラスメントがあり、不公平あります。それどころか、最近の世界の状況を見ると、排外主義的な主張や、分裂や対立を煽る言葉が猛威を振るっているようにも見えます。けれども、聖書が証しているように、キリストは、「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ2:16)。今やすべてのものの違いを超えて、「キリストがすべてであり、キリストはすべてのもののうちにおられるのです」(コロサイ3:11)。そして、神はこの世界のすべてのものが「キリストのもとに一つにまとめられる」(エフェソ1:10)日が必ず来ると約束しておられます。

今、私たちにとって大切なことは、誰を見ても、そこにキリストがおられるということを感じることです。国籍が違っても、言葉が違っても、考え方が違っても、キリストが共におられるのです。また、様々な理由で差別され、排除され、苦しんでいる人がいるならば、それはキリストが差別され、苦しんでいるのです。私たちは、人を区別したり、差別したりしてはなりません。国籍や民族、性別や社会的身分によって人を排除することは許されません。私たちは「自分と違う」と感じる相手を「よそ者」としてではなく、共に生きる「隣人」として迎え入れることが大切です。

私たちは違いを認め合い、違いを乗り越えて、共に生きるよう召されています。共に神の国を目指し、キリストの愛と平和を証しして歩む者でありたいと願います。

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