自由になれる日

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聖書の言葉

イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。

新約聖書 ルカによる福音書 13章12節-13節

吉岡契典によるメッセージ

こうあるべきだという社会通念、重々しい同調圧力というものがあります。そこからくる空気感が人を縛り、当たり前の喜びを妨げたり、人をまっすぐに生きられなくするということが起こります。その中で、自由に喜びをもって生きていこうとすること自体に、大きな勇気が必要になってきてしまう、そういう社会が、この聖書の時代にもありましたし、この私たちの今の社会にもあります。

少し前まで、コロナ・ウィルス禍の外出禁止、三密の回避という自粛ムードが社会に満ちていましたが、聖書の当時のユダヤには、安息日規定というものがそれに当たるものとしてありました。

聖書そのものには、安息日にしてはならない禁止事項について、ほとんど語られていないのですが、ユダヤ教の経典であるタルムードには、数十個に及ぶ、安息日にしてはならない禁止事項がありました。

今でも熱心なユダヤ人たちは、安息日には、その戒めを現代に適用して、火を使うこと、料理をすること、物を書くこと、運転すること、電気製品を使うことなどを禁じています。そういう確固たる規定が、その日を支配していました。それを破るということは考えられないという、有無を言わさぬ決まりが社会の中に深く浸透していて、それぞれの行動を縛っていて、人々は、その規則の中で生き、その規則に基づいて、お互いを監視し合っていました。

その中で、18年間病に取りつかれて、腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことのできない女性がいました。まだ若かったのか、中年だったのか、年老いていたのか分かりませんが、そのすべての可能性があります。そういう意味で、すべての女性にあてはまるような、一人の女性がいた。

彼女は、安息日に行われた会堂での礼拝に来ていました。そこで、主イエスもちょうど、教えておられました。腰が曲がったままの彼女は、そこで目立ってしまったのかもしれません。もちろん治してもらいたい気持ちやまやまで、だからこそ、 曲がった腰で、足を引きずりながら、頑張って何とか会堂に辿り着いた。しかし彼女は、遠慮していました。なぜなら、命に係わる病ではないからです。命に係わる緊急事態を除く医療行為は、安息日には禁じられていました。彼女の周りにいた人たちも、彼女が腰の病気で大変そうにしているのが分かるし、可哀想だと思いながらも、安息日ということもあり、下手に助けられませんでした。せっかく安息日に礼拝に来ているのに、痛々しい病を自らが抱えているのに、それを表に出せない辛さがそこにはありました。

礼拝に来ても気が重い。神様に向かうというよりも、人に対する緊張感や、義務感がそこで勝ってしまって、抱えている苦しさや悩みを表に出せないまま礼拝に行き、その後またそれをまた持ち帰る。そういう心当たりが、そういう日曜日の経験が、私たちそれぞれにもあるのだと思います。

けれども主イエスは、彼女がそのままでいることを許されませんでした。聖書は語ります。「イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」

キリスト教会での礼拝は、まさにこのことのためにあります。自分自身の病、悩み、課題、祈り、それは、本来は自分で何とかしなければならない問題なのかもしれませんが、本当に自分自身では、もうどうにもならないので、教会に行き、礼拝で、主イエス・キリストの前に出るのです。そうしたら、主イエスが何とかしてくださる。安息日だからと言って、命に係らないことだからと遠慮する彼女に対して、主イエスは自粛しないのです。大胆に、皆の前で、主イエスの方から彼女を呼び寄せてくださり、「婦人よ、病気は治った」と言葉をかけて、その上に手を置いてくださった。

そして私たちも、主イエスに言葉をかけていただいて、主イエスに触れていただいて、まっすぐになり、神を賛美するのです。ここで、病気は治ったと訳されている言葉は、弱っていた状態から解放されて強くなったという言葉です。やはり私たちは、毎週、平日を歩む中で、強さ健やかさを失って、時に病気の状態になってしまいます。自分で自分に、あるいは他人から、毎週縛りをかけられて、私たちは弱ってしまう。あの人に言ってしまったあの言葉、あの人から言われたあの言葉、それが心を縛って、それが毎晩思い出されて、自分では、その縄目をほどけない。そういう事が本当に毎週起こります。主イエスに呼び寄せていただいて、手を置いていただいて、あなたは病気から解放された、と言っていただいて、まっすぐにしていただいて、そして嬉しくなって、神様を賛美させていただく。本当にこの日曜日が毎週あるからこそ、私たちは何とかやっていける。

「群衆は、こぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。」と最後に書かれています。この時癒されたのは、この女性だけではありませんでした。数々の、たくさんの素晴らしい主イエス・キリストの御業を、私たちは教会で目撃できます。それによって、私たちも、喜びの日曜日を過ごしたい。神様以外のすべてから自由にされて、罪の縄目を解かれて、嫉妬や競争心からも、空気を読むことからも、変な同調圧力からも、この日ばかりは解き放たれて、すべてのわだかまりを解きほぐされて味わう、自由と喜び。是非それを、キリスト教会で味わってください。

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