神の思い
主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
新約聖書 マタイによる福音書 20章13節-14節
イエス・キリストは天の国のたとえとして、次のようなお話をされました。
ある夜明けにぶどう園の主人は広場へ出かけます。そこは日雇い労働者たちがその日の仕事を求めて集まる場所です。ちょうどぶどうの収穫の時期で、多くの人手を必要としている主人は、彼らを1デナリオンの賃金で雇います。1デナリオンは当時の一日分の賃金で、今だとざっくり1万円くらいでしょうか。
それから数時間後、9時ごろに主人は再び広場へ戻ります。さらに人手が必要だったのでしょう、主人はそこにいた人々にも声をかけます。「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう。」
さらに続きがあります。正午ごろ、そして午後3時にも、主人は広場に行き、まだ働いていない人々を見つけて雇い入れ、ぶどう園へ送り出します。最後に夕方の5時ごろ、それは働く時間はわずか1時間しかないという時ですけれども、主人は再び広場へ行き、そこにいた人々に声をかけます。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と。すると彼らは「だれも雇ってくれないのです」と答えます。主人は、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と彼らを畑へ送り出します。
夕方になりました。主人は監督に言います。「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。」通常とは逆の順番です。そこで、つい先ほど、5時ごろに雇われた人たちが来て、賃金を受け取ります。それはなんと1デナリオンだったのです。
続いて3時、正午、9時、そして最初に雇われた者たちが順に呼ばれ、それぞれ賃金を受け取ります。金額は皆同じ1デナリオンでした。
最初に雇われた労働者たちは、自分たちはもっともらえるはずだと思い、主人に不平不満をぶつけます。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」
しかし主人はきっぱりと答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と。
ここに、このたとえの核心があります。主人の言う通り、主人は何も不当なことをしていません。ただ最初の人たちとの約束を守っただけです。彼らの不満は、自分たちが不当な扱いを受けたからではなく、後から来た人たちが自分たちと同じ額の賃金を得たことにあります。
夜明けから働いた彼らの目には、5時に雇われた人たちは、たった一時間しか働いていない、楽をして報酬を得た人たちに見えたでしょう。しかし、主人の見方は違います。5時に雇われた人たちは、それまで広場で遊びほうけていたのではなく、仕事を求めつつも「誰も雇ってくれない」人たちでした。生きるために必要なお金は、最初から働いていた人々も最後に来た人たちも同じです。養わなければならない家族がいればなおさらです。
主人はぶどう園の労働者にたいして「ふさわしい賃金を払ってやろう」と言われました。主人の考える「ふさわしい賃金」とは、労働時間によって減額、あるいは増額されるものではありませんでした。それぞれが生活するために必要な金額、すなわち1デナリオンだったのです。
さて、イエスが語られたこのお話しは天の国のたとえです。ぶどう園は天の国を、主人は神を表します。異なる時間に雇われた労働者は、それぞれの人生の異なるときに天の国に招かれた人々であり、主人が彼らに約束したふさわしい賃金は、神の恵みです。
神の恵みは、わたしたちが働いて手に入れるものではありません。それは、神の自由な思いに基づいて与えられるものです。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と、主人は不満を持つ最初の労働者たちに語りました。この天の国のたとえは、私たちが他者との比較を通して神の恵みを軽んじたり、感謝を忘れてしまうこと、また他者を妬んだり羨んだりすることの危険性を教えています。
同時に、このたとえは希望と慰めの言葉でもあります。神は人を分け隔てなさらないお方です。神の思いは私たちの考えをはるかに超えたもので、真に公正であるとともに、愛に満ちたものです。神はご自分のもとに招かれるすべての人に、惜しみなく恵みを注いでくださいます。たとえわずかな働きしかできない者にも計り知れないほどの大きな恵みを与えてくださいます。神はそれをふさわしいことだと思っておられるのです。