平和をつくるために② フィレモンへの手紙
それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、 むしろ愛に訴えてお願いします。
新約聖書 フィレモンへの手紙 8節-9節
皆さん、いかがお過ごしでしょうか。甲子園教会の吉田隆と申します。今日の聖書の言葉をお聞きください。フィレモンへの手紙8節9節の言葉です。「わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします」。▼新約聖書の中に「フィレモンへの手紙」という文書があることをご存知でしょうか。パウロという人が書いたとっても小さな短い手紙です。1頁と半分しかありません。けれども、この手紙は、私たちが身近な人間関係の中で、どうすれば「平和をつくる」ことができるかを考えるために、とても大切なことを教えてくれる手紙ではないかと思います。▼フィレモンという人は、パウロから教えられたイエス・キリストの福音によって、キリスト者になった人です。とても裕福な人でしたが、キリスト者になってからは、自分の家を開放して礼拝をする場所にしたり、いろいろな人々を物心両面にわたって支えたり励ましたり、とてもすばらしい働きをしていたようです。このフィレモンに、パウロは、折り入って頼みたいことがあると言って書いたのが、この手紙でした。▼それは、オネシモという人のことです。実は、このオネシモは、元々フィレモンの家で働いていた奴隷の一人でした。ところが、彼はご主人であったフィレモンの元から逃げ出して、巡りめぐって、パウロの所に行き着いたのでした。その時、パウロは迫害を受けて牢屋に閉じ込められていましたが、パウロからいろいろと諭されたのでしょう。彼もまたイエス・キリストの福音を聞いて信じ、キリスト者になったというのです。▼パウロは、オネシモのことをフィレモンに「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」と言っています。面白いことに、「オネシモ」という名前は、「役に立つ」という意味なのです。ところが、奴隷としてさっぱり役に立たなかったばかりか、逃げ出してしまう始末。しかも、ただ逃げ出しただけではない。どうやら主人の家からいろいろと盗んで逃げた、とんでもない奴隷だったようです。▼しかし、この全くもって役に立たなかったオネシモが、今はその名前のとおり、本当に「役に立つ」者に生まれ変わったと、パウロは言うのです。おそらくは、真面目に仕事をするだけでなく、神様のためにも一所懸命働く者に変わったということでしょう。問題は、今パウロに付き添っていろいろと助けとなっているこのオネシモを、パウロが元の主人であるフィレモンの所に送り返そうとしている、ということなのです。なぜなら、オネシモが本来仕えるべきご主人は、パウロではなくフィレモンだからです。▼当時の社会で奴隷というのは、売り買いされる物扱いでした。それが主人を裏切り、さらには主人のものを盗んで逃亡した奴隷など、見つかって送り返されるなら、死刑にすることさえできました。が、パウロは、彼を愛の心で赦してほしい。一人の人間、一人の家族のように受けいれてほしいと願っている。私が命令するからではなく、自発的に、あなたの愛の心で受け入れてほしいというのです。▼フィレモンの心は複雑だったことでしょう。彼もまた生まれ変わって、多くの人を愛する人になりました。しかし、多くの人を愛すること以上に、実はたった一人の人を愛すること、しかも自分や家族の皆に迷惑をかけ害を与えた、いわば犯罪者を愛することは全く別のことです。本当に信用できるのか、信仰者になったというのも見せ掛けだけで、また裏切るのではないか。様々な思いが巡ったことでしょう。一方、オネシモにとっても、元の主人のもとに帰って、過去の過ちをひたすら詫びることは、大きな勇気を必要とすることだったでしょう。さて、この手紙を受け取ったフィレモンがどうしたのか、オネシモがどのように信頼を回復できたのか、できなかったのか、わかりません。▼80年前に、私たちの国も、そしてこの国にあった教会も、戦争の中で大きな罪を犯しました。その罪を告白し悔い改めることは、一つのことです。しかし、そのように数知れない人々の命や財産を奪われた、そのご家族、今なお心の傷を負って生きているお一人お一人とどのように和解をすることができるのか。それは、決して簡単なことではありません。▼パウロは、オネシモが与えた損害の償いは、すべて自分が肩代わりすると書いています。つまり、あとはフィレモンたちの心の中の問題だけだということです。これはとても大切なことを教えていると思います。確かに、私たちが犯したすべての罪の償いは、イエスというお方が肩代わりをしてくださいました。私たちは皆、神様からは赦されています。しかし、そのことと、加害者と被害者の間に本当の和解が実現するかどうかは、全く別のことだからです。▼そのすべてのケースを一律に論じることはできないでしょう。聖書もまた、ただ神の大きな愛を受けた者が、自分の心に問いかけて、誰から指図されることもなく、自発的に、和解を、平和を作り出して行く。そのことを促すだけです。地上の平和というものは、そのようにしてしか、作り出せないのかもしれません。しかし、もしそれが実現するとするならば、それこそ神の御業ではないでしょうか。