殺すな

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聖書の言葉

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」

新約聖書 マタイによる福音書 5章21~22節

牧野信成によるメッセージ

旧約聖書に記されていますモーセの十戒に『殺してはならない』という掟があります。その掟について主イエスは弟子たちに先のように教えられました。

『殺すな』とは十戒の文言にある通りです。そして、『人を殺した者は裁きを受ける』というのもモーセの律法にあることです。「裁きを受ける」とありますが、出エジプト記によれば、殺人罪には死刑が適用されます(21章)。これは昔から、イスラエルに命じられていた掟でした。

そこで主イエスは、誰かに対して腹を立てるならば、それは殺人に等しく死刑に値する、と言われます。「腹を立てる」ということに何か制限があるわけではありません。ちょっといらいらしただけとか、激しい怒りに駆られたとか、程度の問題ではなく、隣人に対する怒りや苛立ちという根本的な感情が殺人の罪に問われます。「裁きを受ける」というのは聖書の言葉遣いで、死刑を意味します。

このように、いわゆる『山上の説教』にある主イエスの教えは、とても極端です。この通りやっていれば、世の中が上手くいく、というような現実感を越え出てしまう内容です。

ここでは、ですから、できるだけ怒らないように穏健に人と接して、平和な交わりを作りなさい、などという、どこにでもあるような教訓が与えられているのではまったくありません。勿論、口先で「ばか」だとか「愚か者」だとか言わなければいいというような表面的なことでもない。人の心の中に芽生える、僅かな人殺しの兆しを、神はすっかり見通しておられて、そこに死に値する人間の深い罪が指摘されます。

私たちの考えでは様々な疑問も出てきます。確かに怒ることは快いことではないけれども、怒らなければいけないときもあるのではないか。正義の怒り―義憤であるとか、自らのプライドをかけての怒りとか。この世の悪に対する憎しみとか。これらはすべて、神の前にあっても正しいことではないか。旧約聖書でも神が人の世の堕落した様子にお怒りになって、洪水で世界を滅ぼしたり、火で町を焼き尽くしたりしているではないか、など。

そういうことで、『殺すな』という掟の解釈については、主イエスのような極端な広げ方をする人は他にはありません。

憎しみが平和を壊すことは誰でも分かっているのですけれども、例えば、主イエスと同じ時代に生きた聖書の教師たちは、きちんとした理由があれば相手を憎んでも仕方がないとしました。ローマ兵に家族が殺されたとか。先祖伝来の土地が奪われたとか。そういうことがあっても憎むなとは不条理に思えます。

しかし、主イエスがここで語っておられるのは、神が人を支配する本来のあり方ですので、この世の常識とは異なります。現実離れしていて当然なのです。

『殺すな』という古くから知られるモーセの掟は、『殺さなければいい』ということではさらさらなくて、『殺そうとしてはならない』ということとして、どんな僅かな兆しも認められてはならない。それが、神の命令たる『殺すな』の意図であることを、主イエスは教えておられます。大切なのは、それがどれだけ実現可能かと直ぐに自分の生活のレベルに引き降ろして御言葉を聞こうとすることではなくて、まず神の御旨は何かを聞くことです。

私たちの内には、やられたらやり返すという習性が備わっています。どんなに穏やかな人であっても、自分の一番大切にしているものを汚されたり、貶められたりすれば、僅かではあっても心の内に怒りがこみ上げて来るでしょう。ここでは怒りを外に表してはならない、という勧めがなされているわけではありません。無条件に、無制限に、怒りは殺人であり、地獄に値する。ここでの主イエスの言葉は、神の掟に従うことができると思っている人々に対して、こうして一撃を加えるものとなります。誰の心にも殺人の根があるのです。

そして、これは実に愛の問題です。『殺すな』とは殺さなければよいということではない。キリストの下で、神の支配が及ぶところでは、人は殺さない。もとより、十戒の文言にしても、『殺すな』という掟は、『あなたは殺さない』とも読むことができます。まさに、キリストと共にやってきた神の国では誰も殺さないのです。そこでは愛が実現するからです。赦しが完了するからです。敵をも愛する愛に生かされている世界で人は殺しません。

そんな世界は夢のようです。けれども、『殺すな』という掟の背後には、それだけ私たちが生きることへの関心を神がもっておられて、私たちの命を大切にしてくださる神の御旨が、告げられています。人が互いに憎み合い、殺さないで済む世界を目指して、主イエスは十字架を背負って歩まれました。そして、そこへと至る突破口を神の力によって開かれました。私たちにはいつも、赦すか、赦さないのか、愛するか、愛さないのか、その選択が問われています。そこで、その困難な一歩を踏み出させてくれるのは、イエス・キリストへの信仰なのです。

天の父なる御神、あなたは御子イエス・キリストの十字架によって、私たちへの怒りを解き、理由なくして、ただ憐れみによって私たちとの和解を打ち立ててくださいました。あなたは私たちが、御前にあって活き活きとした喜びに生きるために、互いに愛し合うようお命じになっています。どうか、私たちの心から怒りや苛立ちを取り去り、聖霊の助けによって、真に赦しあうことができますように。一人ひとりの隣人に向かわせてください。主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

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