聖書が教える幸い
3 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
新約聖書 マタイによる福音書 5章3節
おはようございます。今日と来週の二回に渡って、聖書が語る幸いについて考えてみたいと思います。今、お読みした「幸いである」という言葉は、「あなたは神様から祝福されている」という意味の言葉です。また、この箇所で使われている「貧しい」という言葉も、ただの「貧しい」という言葉ではありません。「生活に余裕がなく、苦しい」という貧しさを表わす言葉は、また別にあるのです。ここで用いられている言葉は、「完全に無一物である」ということを言い表わす言葉です。つまり、イエス様がここで「幸いだ」と言われたのは、自らのものは何一つ持たず、物乞いをして生きる他はないような徹底的に貧しい人のことを言うのです。また、この箇所に使われている「心」という言葉は、通常、「霊」と翻訳されることの方が多い言葉です。聖書の言う「霊」とは、心よりももっと深い部分のことを言います。更に「霊」は、神様と関わる部分、神様と交わる部分でもあります。そういう意味を踏まえると、ここで言う「心の貧しい人」というのは、「自分の人格の中心は空っぽで、神様との関係も最悪で、心よりももっと深い自分自身がどん底の状態であり、自分の中には誇るべきものが何一つない」ということです。これは、どう考えてみても「幸いな人」とは言えません。このように、このイエス様のお言葉は、私たちには、とうてい同意できるものではないのです。では、何故、イエス様は、「心の貧しい人々が幸いなのだ」と言われたのでしょうか。
イエス様の周りにいた弟子たちや群衆は、決して立派な人たちではありませんでした。どちらかと言うと社会からははみ出していたような人たちばかりです。そもそも、イエス様が主に活動なさったガリラヤ地方という地域は、ユダヤ民族からも民族の恥として忌み嫌われていた地域でした。またイエス様の噂を聞きつけて他の地域からやってきた人たちも、おそらく自分自身の色んな欠けや罪に苦しみ、自分ではどうにも出来なくて、イエス様の助けを真剣に願い求めてやってきた人たちではなかったかと思います。つまり、彼らこそ心の貧しい人々だったのです。イエス様はそういう人々に向かって、「心の貧しい人々は、幸いである」と語りかけて下さいました。これは即ち、目の前にいる人たちに向かって、イエス様は「あるがままのあなた方が神様に祝福されている」と宣言して下さったのです。
イエス様は今、私たちにも語りかけて下さいます。「心の貧しい人々は、幸いである」と。「確かにあなたには醜さもあるし、弱さもある。否定的な考えがあり、希望のない冷たい心がある。確かにあなたには愛が欠けている。私もそのことをちゃんと知っている。けれども、たとえそうであったとしても、神はあるがままのあなたを愛しておられる。そういうあなたを神は深い憐れみをもって救って下さるのだ!」このようにイエス様は語りかけて下さるのです。
けれども、イエス様は私たちの貧しい生き方そのものを肯定なさったわけではありません。心が狭く、愛に欠けている私たちの生き方がそのままに認められたわけではないのです。心の貧しさとは、「罪」とも言い換えることができるでしょう。罪は罰せられなければなりません。神様は、私たちの罪を激しく怒り、裁き、呪い、罰せられます。けれども、その裁きが終わり、刑罰が終わってみると、そこに一人の人が十字架にかけられて死んでいました。そのお方こそ、私たちの救い主イエス・キリストです。イエス・キリストの死によって、神様の怒りは貫かれました。そして、同時に、そこで私たちの罪が裁かれ、罰せられたのです。もう私たちは裁かれる必要がありません。完全なる赦しが与えられたのです。心の貧しい、自らの中に何らよいものがない。その貧しさのゆえに常に人を傷つけ、問題を起し、悲惨な事態を生んでしまう。そんな私たちを、主イエス・キリストが背負って下さいました。そして「あなたは幸いである。そんなあなたが神様から祝福されている。もうあなたは、自分の中に豊かさがないと嘆かなくてもいい。あなたがどんなに貧しく、誇るべきものが何一つなくても、私はあなたを愛し、あなたを背負い、支えていく。だからあなたは幸いなのだ。安心していきなさい!」とイエス様は自らの命を懸けて宣言して下さったのです。
心の貧しい者たちは、自分の心の中に、拠り所となるものを何一つ持っていません。そのことを自分でもよく自覚しています。そういう者たちは、神様の救いに依り頼む他はないのです。実際にイエス様の周りには、そういう人たちがイエス様を慕って、沢山集まってきました。イエス様はそういう人たちに向かって、「心が貧しく、神様の祝福を切実に必要としているあなた方は幸いである。あなた方はもう既に神様の祝福の内に生き始めている」と宣言して下さったのでした。
今日、イエス様は私たちにもこう語りかけて下さいます。「心の貧しいあなた方が幸いである。あなた方は神様に祝福されている」と。
自分の力で頑張るのではありません。自分が神様の前で本当に貧しい者であることを素直に認めればよいのです。そうすれば、私たちの貧しさを、イエス・キリストが十字架の愛で包み込んで下さるでしょう。「私の十字架の死は、そういうあなたがたの貧しさを補うためにあった!」と言って下さるのです。
今日、是非、あなたもこの神様の招きを素直に受けとめて、幸いな人生を生き始めていただきたいと思います。