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國安光
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はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。
新約聖書 マタイによる福音書 10章42節
おはようございます。淀川キリスト教病院チャプレンの國安 光です。私が患者さんとの関わりで、よく耳にする言葉の一つに、「人に迷惑をかけたくない」があります。私が「どうしてですか」と尋ねると、「人の足を引っ張ってまで生きたくないんです」とおっしゃいます。それからさらに「足を引っ張ることは悪いことなのですか」と質問をしますと、ある方は涙しながら、「迷惑をかけてまで生きているのが辛い。自分が情けない」とおっしゃいます。
体が弱る中で、認知能力が低下する中で、ご自分のことを恥じる思いで、そうおっしゃるんです。何か少しでもいい、人の役に立ちたい、そういう切実な求めがあるんです。涙を流されながら話される方の声に耳を傾けながら、そのような思いを話せず、ずっと一人で抱えてこられて、どれほどお辛かっただろうかと思います。
前にそうおっしゃる方に、私はイエス様のお言葉、小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける、この言葉を紹介したことがあります。冷たい水一杯を差し出すというのは、何か特別なことではなくて、誰でもできる、また誰に対してもできる小さなことです。イエス様は小さなことに必ず報いがある、小さなことまで神様は意味あることとして、永遠に覚えていてくださる、だからどんな小さなことであったとしてもきっと誰かに与えられることがあるはずです、こうお話をしました。
するとこうおっしゃいます。「お世話をしてもらう時、関わってくれる方に声をかけたいと思います。その方のために心の中で祈りたいと思います。そうやって少しでも誰かのために役に立てるとしたら、心が穏やかになります。」イエス様のお言葉を聴いて、そのままの自分を受け入れることができるようになられた、「人の迷惑になることイコール、役に立たない、生きる価値がない」という苦しみから解放されたんです。
「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は必ず、その報いを受ける。」これは冷たい水を差し出すように、そうではなくて小さな者、自分に水を差し出してくれる人がいて、その水を私が受けることを通して、差し出した誰かが報いを与えられる、そういう受けることを通して、与えることができる、ということを教えるみ言葉です。
私は牧師になりたての時、2011年東日本大震災を経験した仙台の地に遣わされました。被災地には、たくさんの辛い思いを抱えている人がいました。自分はそのような方々の役に立ちたい、何かすこしでもできることをしたい、こう思っていました。でも実際はほとんど何もできませんでした。自分は何もできないではないか、自分はなんて情けない思いでいっぱいになったことがありました。
そんなある時に、一人のご婦人の方が私にこんなことをおっしゃいました。「先生、来てくださってありがとうございます。私は先生がいてくださっただけで安心です。」私はハッとさせられました。自分はいるだけで安心を与えることができている、このことに気づかされて、自分を肯定していただいた、そんな思いでいっぱいになりました。
一人のご婦人は、私に水いっぱいの水を差し出してくださったんですね。またその一言で私自身はあれもしなくちゃ、これもしなくちゃ、それが水を差し出すことだと思っていたけど、差し出される水を受け取ること、受け身になることで、誰かに水を差し出すことができる、こういうこともあることに気付かされました。
私はチャプレンとしていろんな人とかかわります。でもかかわりが本当でこれでよかったのだろうか、いつも悩むものです。前に先輩チャプレンにそのことを相談したら、こういうアドバイスをくださいました。
「あなたがその人のことを考えながら、精一杯かかわろうとしているなら、そしてそのような中であなたが誰かから何かを受け取ることができたとするなら、それで十分だ。あなたがゲストとして、その方のところにいることで十分役を果たしているんじゃないか。」私は本当にほっとしたんです。
人に迷惑をかけてばかりだ、自分は役に立たない、そんなことを思う方がおられたら、どうかイエス様のお言葉に心にとめてください。あなたの存在を必要としている人がいます。神様はそんなあなたの差し出す水一杯に永遠の意味を与えながら、あなたの今日1日を祝福してくださいます。存在そのもの、たとえ受け身であっても、誰かに水を差し出すことができる、今日あなたの1日が神様とともにあって、よき日となりますように、お祈りしています。