神によって植え付けられた者

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聖書の言葉

3その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

旧約聖書 詩編 1編3節

金昭貞によるメッセージ

おはようございます。神戸改革派神学校の金昭貞です。

皆さんは、「世の中は不公平だ」と考えられたことはありませんか?正しく誠実に生きる人が多くの困難に直面する一方で、不正を行い、ずる賢く立ち回る人がむしろ成功しているように見えるとき、私たちは「世の中は理不尽だ」と感じることがあります。特に、神の御言葉である聖書を愛し、その教えに従おうとするクリスチャンとしての歩みの中で、試練を経験することがあります。もちろん、クリスチャンとして生きることは大きな祝福であり、言葉では言い尽くせないほどの平安が与えられます。しかし、クリスチャンになったからといって、すべてがうまくいくわけではありません。

こうした試練の中で、詩編の詩人は神の御言葉を愛し、正しい道を歩む者を「流れのほとりに植えられた木」にたとえています。ここでいう「流れのほとりに植えられる」という表現には、もともと「最初に植えられた場所から、他の場所へ移される」という「移植」の意味が含まれています。つまり、自然に生えたままの木ではなく、植える人の手によって丁寧に植え替えられた木を指しているのです。詩人が暮らしていたと考えられるパレスチナの地は、乾燥した気候の多いため、肥沃な土地がほとんどありません。また、川も乏しいため、農業に必要な水を確保するのが難しい地域です。特にユダの荒れ野は耕作がほぼ不可能な荒れ地が広がっています。そのような土地で、木が根を張り、葉を枯らすことなく、豊かに実を結ぶことは容易ではないです。だからこそ、詩編の詩人は「神の御言葉を愛し、正しい道を歩む人」を「荒れ地から流れのほとりに移された木」にたとえたのでしょう。本来ならば枯れてしまってもおかしくないような罪人である私たちを、神様が荒れ地から救い出し、流れのほとりに植え替えてくださったのです。

そして、神様によって流れのほとりに植えられた者は、やがて時が来れば実を結びます。葉がしおれることもなく、その人の営みはすべて祝福され、繁栄をもたらします。一見すると、悪人が繁栄しているように見えることがあります。しかし、神様は御言葉を愛し、正しい道を歩む者を、最もふさわしい方法で繁栄させてくださいます。ただし、その繁栄がもたらされるには、「時が巡り来る」ことが前提となります。その時が来るまで、忍耐をもって待たなければなりません。

旧約聖書にはヨセフという人が登場します。ヨセフが実を結び、繁栄するまでには長い時間がかかりました。それだけでなく、多くの試練や困難にも直面しました。彼は兄弟たちに裏切られ、エジプトへ奴隷として売られました。さらに、無実の罪を着せられ、牢獄に入れられる苦しみも味わいました。長く辛い試練の時を過ごしたヨセフでしたが、ついに時が巡り来ました。神様はヨセフをエジプト全土を治める地位へと導かれ、ついには家族を飢饉から救うことができました。同じように、神様によって流れのほとりに植えられた者も、時が巡り来るのを待たなければなりません。秋に植えた球根が寒い冬を耐え、やがて芽を出し、実を結ぶように、私たちも試練の時を忍耐強く耐え抜くことで、やがて繁栄がもたらされるのです。

しかし、人間にとっての本当の繁栄は、ただ主イエスによってのみもたらされます。これまでの歴史の中で、神の御言葉を完全に愛し、正しい道を完璧に歩んだ人は一人もおらず、これからも現れることはありません。ただ唯一、主イエスだけが神の御言葉を完全に愛し、正しく生き抜かれました。すなわち、主イエスは、罪深い私たちのために十字架にかかり、命を捧げてくださいました。そのおかげで、本来なら神に背を向けていた私たちが、流れのほとりに植え替えられたのです。それだけではありません。主イエスは、私たちを御自身というぶどうの木に結び合わせ、接ぎ木し、神の子としての救いの命を与えてくださったのです。 流れのほとりの木が豊かに実を結ぶように、私たちも主イエスに結ばれることで、神様が与えてくださるまことの命につながることができます。たとえ人がどれほど善い行いを忠実に積み重ねたとしても、それだけで救われるわけではありません。救いは、私たちの努力ではなく、主イエスに結ばれることによって与えられる神様の恵みなのです。これこそが、人に与えられた真の繁栄です。どうか、流れのほとりに植え付けられた木のように、主イエスに根ざし、まことの命に結ばれていきますように、心から祈り願います。

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