キリストがなければ私の益はない

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聖書の言葉

全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 13章3節

宮﨑契一によるメッセージ

おはようございます。私たちはこの人生の中でいろいろなことを経験しますが、私は一昨年の冬に、私の妻の父親(義理の父親)を亡くすという経験をしました。このお父さんは60代という比較的若い時に認知症を発症して、そこから10年ほど家族に支えられて病と歩み、地上の生涯を終えました。今朝はこのお父さんのことをご紹介して聖書の神様の恵みを覚えることができればと思っています。

私がこのお父さんに初めて出会ったのは、亡くなる数年前でしたけれども、その時点で会話らしい会話はほとんどできませんでした。お父さんの職業はキリスト教の牧師でした。けれども、病気が進む中で段々出来ることが限られてきて、最後は衰えて車椅子になって、あっという間に地上の生涯を終えられました。本当に人の生涯は短くてはかないことを思わされたのです。

このお父さんは、元々はプロゴルファーを目指していた人です。20代の頃はそれこそ毎日熱心に練習をしていたそうです。まさにゴルフ漬けの日々です。しかし、そんなお父さんにも人知れず深い悩みがあったというのです。それは死への恐れでした。若い頃は胃腸があまり良くなくて、そのまま癌のようなものになって死んでしまうのではないか。そうしたら自分は死後どうなるのか。死への恐怖が強くあったと言います。

そのような中で、あるキリスト教の集会に出席したことがきっかけで、お父さんは自分自身の弱さや醜さ、罪を認めることができるようになり、イエス・キリストが自分のために十字架にかかり、復活したことが本当に自分自身のこととして分かるようになったといいます。20代でイエスを受け入れて、キリスト教の洗礼を受けました。

このことはお父さんの人生を大きく変えることになります。プロゴルファーを目指していたお父さんは、結果的にはツアープロにはなれなかったのですが、ティーチングプロという資格を得ることができました。でも自分はどうしても自分を救ったイエスを伝えたい、という思いから、ティーチングプロの資格を捨てて、キリスト教の牧師になるために神学校に入学をしたのです。神学校を卒業した後は、再び一度は諦めたゴルフにも触れるようになって、ゴルフを通して伝道する働きを牧師として最後まで続けられました。キリスト教の牧師として、日本ではとても珍しい働きをされたと思います。

このお父さんの特徴は、イエス・キリストにとても素直な人だったということです。お父さんが、あるキリスト教の新聞のインタビューで、ベッツィー・キングという、一人のクリスチャンゴルファーの言葉を引用してゴルフについてこう語っています。その部分をお読みします。

クリスチャンゴルファーのベッツィー・キングは「今日自分が最悪のゴルフをしたとしてもイエス様が共におられるという喜びは、優勝した時の喜びにはるかに勝るものである」と語った。これらのことを思う時に、神は、ゴルファーたちをイエス様へと導く最も素晴らしい道具の一つとして、ゴルフを用いておられるとの確信を強くさせられる。

たとえ今日自分が最悪のゴルフをしたとしても、イエス様が共におられるという喜びは、優勝した時の喜びにはるかに勝る、とお父さんは言っています。自分のプレーが最悪でも、イエス様が自分と共におられることの大きな喜びがある、というのです。そこではゴルフの勝ち負けが全てなのではありません。ゴルフの成績も含め多少上手くいかないことがあっても、自分にはイエス様がいるのだから良い、そう言っているかのような言葉です。これが、お父さんにも与えられたイエスを信じる喜びです。

またお父さんはこのインタビューの中で、ゴルフは神がゴルファーたちをイエス様に導くための素晴らしい道具、とも言っています。お父さんは、相手と一緒に一日をかけてプレーするゴルフを通して、自分の無力さを知らされ、自分には欲張りの思いがあること、他者への愛が自分に欠如していて自分勝手な人間であること、を知らされたと言います。それはそのまま、お父さんがイエス・キリストを求めて信じることにつながるものになりました。

イエス・キリストと聖書の言葉に素直だったお父さんは、認知症になってからもイエスという名前を語っただけで反応をされることがありました。亡くなる直前、もう何も話ができないような時も、キリスト教の天国を指す「みくに」という言葉があるのですが、「みくに」という言葉を言われていたそうです。それがお父さんを最後まで生かしていたものでした。

私がお父さんと過ごしたのはわずかな時間だったのですが、私はその姿から多くのことを教えられました。認知症、と言いますと、今は多くの人が避けたいと思う病気の一つです。自分はそれだけにはなりたくない、という声を聞くこともあります。

しかし私はお父さんの姿を通して、たとえ認知症であっても、その人にイエス様の幸いがある。それはたとえどんな病気になっても、イエスの恵みは決してその人から取り去られない。そのことを深く教えられました。病の中でなおイエスという言葉に反応し、みくに、という言葉を口にする。それはイエスを信じてから、お父さんがずっと生かしてきた希望でした。

聖書の中には「愛がなければ、わたしに何の益もない」という言葉があります。これは言い換えれば、イエス・キリストがなければ私には何の益もない、こう言っても良い内容です。たとえ病や苦しみがあっても、私にキリストがあれば良い。この方は、たとえ一人一人がどのような状況でも、決して取り去られない方なのです。

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