神はわがやぐら
2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
3 わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも
4 海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ
旧約聖書 詩編 46編2節-4節
地、山、海。これらは人間が常に頼ってきたものを指します。人は地の土や山、海や川から、穀物や果物、野菜、海草などの食べ物を取ります。私たちが食べるお肉、魚、家畜も地、山、海によって育てられます。そして、地や山は人が住むことのできる基盤をも与えます。地と山が揺らぐことがないと信じているから、私たちはその上に家をたて、その上で生活するのです。
今日のみ言葉で、 「地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移る」こと、
海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震える」ことは、私たちが頼っていて、自分を守っていた物事が揺れてしまうことを意味します。自然災害が起こり、それによって私たちの生活の環境が破壊されたり、病気や事故によって自分の体が病んでしまったり、また、自分の周りの人々との関係が壊れてしまったり。 私たちが自分を守ってくれると信じていて頼っていたこれらのことが揺らぎ、変わってしまうと、私たちは苦しみを感じます。苦難とは自分が頼っていたものが壊れること、奪われること、変わってしまうことによって、もはや安全にいられなく、安心感を失ってしまう状況であります。
しかし、今日の御言葉の著者は誰もが恐れ、不安に陥るような状況であっても、決して恐れることがないと歌っています。なぜでしょうか?それは彼が地、山、海に頼っていたのではなく、どんな時でも変わらない主なる神に頼り、それによって安全を保てていたからであります。神の都は揺らぐことがありません。なぜなら神がその中におられるからであります。神様によって守られ、助けられる神の民の共同体、それが神の都、神の御国であります。神を知らない他の民、人々は騒ぎ、国々は揺らぎますが、神様が共におられ、神様が砦となられ、守られる民、神の御国は揺らぐことはありません。
私たち人間はそもそも神様によって創造され、神様によって生きる存在であります。神様こそ私たちの真の親であられ、私たちの命の源であられるのです。神様の愛と恵、その保護と導きの中でしか、私たちは憩うことができません。この世にある全てのものは、神様によって作られた被造物に過ぎないので、私たちの頼れるものではないのです。
しかし、人は神様に頼ることを拒み、自分の力で生きることを選びました。それが私たち人間の根本的な罪であります。自分の思うがままに生きようとする欲望によって、私たちは神様から離れました。そして私たち人間は真の保護者であられる神様ではなく、いずれ変わるもの、いずれなくなるものに頼り、苦しんでいます。お金も、権力も、社会や国家も、人間関係も、自然も、自分の体も、私たちの魂を守ることはできません。これらが、変わらず永遠に自分を守ってくれると信じているから私たちは苦しむのであります。
普通「神の都」とは神の神殿があるエルサレムを指す言葉でありました。しかし、イスラエル王国も、エルサレムも、そしてその中心にあったエルサレム神殿も、この歌の内容とは違って、完全に破壊されました。そして、イスラエルの人々はアッシリアやバビロン、ペルシアによって植民地として支配され、捕虜とされました。なぜなら、イスラエルの民、人々が口では神様に頼り、神に従うと言いながらも、実はこの世にあるもの、すなわち富や力、繁栄に頼っていたからであります。
皮肉にも、この詩編にはエルサレムという名前が現れないことから、神の都とされていたエルサレムの神殿と城が崩壊された時にこの詩編が書かれ、歌われたと思われます。自分たちの神様への逆らいと不信仰によって、国が滅ぼされ、何一つ頼れるものがなく、この世に生きる希望をも失ってしまった時、イスラエルの民は真の希望、砦としての神様を仰ぎ始めました。目に見える神の都と神殿、エルサレムが完全に破壊されて初めて、イスラエルの民は揺らぐことのない主なる神の慈しみと恵みに依り頼み、共にこの賛美を捧げ続けたのであります。