キリストの愛のなかで

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聖書の言葉

「わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです。」

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章38~39節

城下忠司によるメッセージ

先日、私は駅から家に帰る途中、次のような経験をしました。丁度、雨の日、駅をでてすぐ、母親と子供の二人が雨に濡れながら家路を急いでいました。私は咄嗟に傘を差し掛け「どちらまでおかえりですか。宜しかったら、お入りください。」と勧め、家が私のマンションの近くでしたので送っていくことになりました。二歳半の女のお子さんで、母親の手をしっかりと握りしめ、早足で歩いていきます。母親の目はじっと子供に注がれ、深い愛情を感じました。途中母親は夫を亡くし、一人で働きながら育てていると語ってくれました。久しぶりに心に熱いものが沸き上る経験をしました。家に帰ったあとで、私は随分昔の本が頭に浮かびました。50数年前に書かれた、カンドウ神父の永遠の傑作という文章です。

【《日本の母》という言葉はひところ妙に力んだ偏狭な意味で使われていた。しかし、真に尊いものは必ず永遠と普遍に通じるはずである。】という前置きのあと次の手記の紹介があります。【獄舎に彼と涙の対面をした母親の最初の言葉は怒りでも恨みでも泣き言でもなく、『あなたの愛し方が足りなかった母さんが悪かった。ごめんなさいね』とやさしい詫び言葉だった。一世を騒がせたこの殺人犯を真率謙虚な青年に一変せしめたのは、母の純愛の一言であった。】

最後にカンドウ神父は《無私の愛は愛の極致である。母の心は造物主の傑作だ。と言った学者に同感する。かかる尊い例を、日常に無数に秘めている日本人の母は、時に一部が遠来の客たちにどう見られようと、世の光であり人類の誇りである。》と締め括っています。

私たちの周りから、親子の愛、男女の愛、友情など愛と呼ばれてきたものの本当の姿がだんだん少なくなっていっていることに、悲しみを覚える者です。

私の本棚に〔シリーズあらしのよるに〕という絵本6冊があります。木村裕一という方の作です。この絵本のお話は、あらしの夜に出会ったオオカミのガブとヤギのメイが暗やみの中で、相手が誰だか分からないまま、親しくなり、友情を育み、やがてオオカミとヤギであるという関係を越えて、益々その愛の絆が深く堅いものになり、どちらも自分の群れの中にいては、二人の深い友情が保てないことを悟ります。やがて二匹は、仲良く住める自分たちの土地を探して、高い雪山を越え、進んで行きます。ところがオオカミの群れが彼らの行く手を阻もうとして襲いかかってくるなかで、ヤギを雪の穴に残して、猛然と一匹のオオカミは立ち向かいます。その時、大きな雪崩が起こってすべてを飲み込んでしまいます。一匹の白いヤギの為にオカミは、自分の命を捨ててしまうのです。

最初にお読みました聖書の御言葉のまえには、次の言葉がでてきます。

『わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか』と語ります。

神さまは、私たちの罪のために、自分の独り子さえ、何のためらいもなく私たちを救うために十字架にお付けになりました。どんなに辛く耐えられないほどの苦しみであったかと思わずにはおれません。このように神さまは私たちのために、御子イエスさまを惜しまないで捧げました。御子イエスさまを見放されたのです。ここに神さまの絶対的な愛が現されたのです。神さまはそれほどまでに私たちを愛してくださっている故に、御子と一緒にすべてのものを、恵みをもって与えてくださるお方であると語るのです。

愛には様々な形があり、大小がありますが、ヨハネという人の書いた福音書には『友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない。』とイエスさまの話された言葉が記されています。また、マタイという聖書を書いた人は、『私のために自分の命を失う者は、それを見いだす。』とイエスさまの言葉を記しています。

人間同士の間で、愛するゆえに、命を捨てるということは、中々ないことです。聖書の語る愛は、他の人々の為に、すべてを忘れて、自分自身の利益や生活すべて、さらに自分の救いすら忘れて、兄弟姉妹のために命を捨てることができる愛です。

神さまによって与えられた、御子イエスさまの愛のなかで、日々、兄弟姉妹を愛することのできる者にして頂きたいと願います。

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