苦難の時キリスト者は

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聖書の言葉

3 世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。

4 主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目(おんめ)は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。

旧約聖書 詩編 11編3節-4節

李在永によるメッセージ

キリスト者も苦難に見舞われます。主に従う人にも苦しみの時は訪れます。ならば、キリスト者は苦難の状況に会った時、キリスト者でない人々と何が違いますか?キリスト者は苦しみをどう受け止め、それにどう立ち向かうでしょうか?4節で詩人は答えています。

4 主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。

まずは、主は天に御座を置かれます。御座とはただの神様の座られる椅子ではありません。この世を統治される権威のある王座であります。キリスト者は苦難の時に、この状況や世界を治められ、コントロールされるのが神様であることを心に留めます。キリスト者は苦難と混乱に見える状況、苦しみの時であっても、神の完全なるご計画の中にあることを信頼します。王座に座られる神様を見上げます。

この世の秩序が覆っているということは、まさに人間としてはアウト・オブ・コントロールということの状況であります。私たちがコントロールできない状況に会うと、パニックに陥り、精神的、心理的に苦しみます。苦しみとは私たちが統制できないことに対する反応であります。私たちの身体と理解の限界を超える出来事に会うと、苦痛を感じます。言い換えれば、苦しみ、苦難、苦痛とは、私たち人間が自分の人生をコントロールし、世の全てを理解できるという傲慢、思い高ぶりから生じるのです。自分の思い通り、計画通り、望み通りになるはずだと信じていた、自分の健康、人間関係、状況、世界が、私たちを裏切り、自分ではコントロールできない状況を苦難と呼びます。人間が神になろうとする欲望が神に逆らう罪の根本的な動機だとすれば、苦難、苦しみとは、人間が決して神のような全知全能の統治者ではない真実に対する反応だと言えるでしょう。人間が死を一番の苦しみと認識し、恐れるのも、死こそ自分ではどうにもできなく、理解することもできない完全な無力と無知の状態であるからです。

ですから、私たちが状況や現実から来る苦しみ、苦難を克服する根本的な方法は、その苦難の状況と現実の解決ではありません。自分の人生の王座から自分が降りること、そして真の王であり統治者であられる神様を王座に迎え入れることが苦難に対する私たちの正しい姿勢であります。そして、神様こそ私たちの命の主人であり、この世を治められる王であられることを認めるためには、自分自身がこの世界はおろか、自分の体すらコントロールできない弱い存在に過ぎないことを認める謙りと、神のようになろうとする自分の欲望に対する悔い改めが必要です。何よりも、この世と私たちを統治され、治められる神様が良いお方であられ、私たちを愛される方であることを信じるものだけが、王座に座られる神を喜ぶことができます。

また、4節で詩人はこのようにも歌っています。

Psalms 11:4

4 主は聖なる宮にいます。

聖なる宮、神殿に神様はおられます。神殿は神様が自ら私たち人間の間に来られ、共におられるための場所です。神様が私たちと共におられ、交われる方であることを神殿は表しています。私たちはいくら神様を信じていても、まだ弱く、愚かで、自分の罪深い欲望から完全に解放された存在ではありません。ですから、キリスト者であっても自分が理解できなく、望んでない状況に会うと、苦しみ、嘆きます。しかし、神様はただ遠く離れているところで、私たちを傍観し、放っておく方ではありません。私たちの苦難の時に共におられ、私たちを慰められ、癒され、正しい道を示されるお方です。

しかも、神の神殿は、神社やお寺のような特定の場所や建物ではありません。また、神を祭るためには、何か複雑な儀式や生贄、賽銭(さいせん)が必要でもありません。神様は私たちと共におられ交わる、まことの神殿として、イエスキリストを私たちに与えられました。私たちの神になろうとする欲望と、神を認めず自分の思いのままに生きる罪の贖いとなられたイエスキリストを、私たちが心に受け止めることで、神様は私たちの魂の中を神殿とされます。

そして、私たちはイエスキリストのお名前に頼ることで、 私達と共におられる神様にいつもどこでも祈ることができます。助けと導きを求めることができます。そして、神様はイエス・キリストの御名に頼る私たちに苦難を乗り越える知恵と力を与えられます。

ですから、苦難の時、私たちは一人ではありません。神様が私たちのそばにおられます。私たちが神様を私たちのよりどころ、避けどころとする時、私たちはパニックではなく平安の中で苦難を通ることができます。世の秩序が覆っている時にも、主なる神は神殿におられます。私たちから離れていません。そして、すべてを善き御心のままに統治されます。ですから、キリスト者は自分の愚かさと弱さ、苦しみと失敗に絶望せず、共におられる神様を喜び、苦難を乗り越えることができるのです。

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