悲嘆を癒す涙

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聖書の言葉

マリアはイエスのおられるところに来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、『主よ

、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、ご覧ください』と言った。イエスは涙を流された。

新約聖書 ヨハネによる福音書 11章31節-35節

國安光によるメッセージ

おはようございます。淀川キリスト教病院チャプレンの國安です。皆様、いかがお過ごしでしょうか。私は少年時代、泣くことは恥ずかしいこと、そう思っていました。もちろん悲しくて、泣きたくなることもありました。泣くとしても、誰もいないところで、一人泣きます。それが美徳だと思っていました。そのせいか、悲しいと感じても、笑顔で、明るく振る舞い、自分の心の中にある悲しみを他の誰かに話すことはできませんでした。本当は悲しいのに、いつも強がっていて、自分を苦しめていたと今は思います。

でもやがて大きな悲しみを経験します。親戚のおじさんとの別れです。私を息子のように大事にしてくれたおじさんで、よく親身になってお話を聞いてくれて、これから先のことに不安を感じているようなとき、支えてくれました。ある時、そのおじさんが事故でなくなったという知らせが届きました。最初は受け止めることができず、混乱していました。しばらく経って、ようやく理解できた時、とめどなく涙があふれてきました。

その悲しみを自分の中にしまいこんで、他の人には気づかれないようにしていたつもりでしたが、親しかった教会の友人が私が何かおかしいのに気づき、心配をして「何かあった?話してみてよ」とこう言ってくれたんです。私はとても嬉しかったのですが、でもなかなか自分の思いを言えず、沈黙のまましばらく歩きました。その友人は、その時何か根掘り葉掘り聞こうとせず、ただ私の横にいてくれました。結局、その日は何も話すことができませんでしたが、私はただ横にいてくれた友人の存在にホッとしました。

それから後日、また友人とあったときに、「実はね・・」とようやく話すことができました。友人は、「それは辛いわ〜」と言いながら、泣いてくれたのです。自分もその涙のおかげで泣くことができました。自分は一人じゃないんだ、一人で抱え込まなくていい、そう思うことができて、それまでずっと心に雲がかかったような状態でしたが、雲の間から光が差し込むような感じがして、気持ちが落ち着いていきました。

私はなんとも言えないあたたかい気持ちの中で、泣いてもいいんだ、こうはじめて思えて、これをきっかけに自分の気持ちに素直でいられるようになったように思います。暗い部屋に一人ぼっちでいるような気持ちでいたあの時、一緒に泣いてくれたクリスチャンの友人の存在とその涙に支えられました。

思えばイエス様も悲しむ者と共に涙を流されるお方です。イエス様と親しかったマルタとマリアという姉妹の兄弟ラザロが病でたおれたときのお話です。兄弟ラザロをイエス様は墓の中から生き返らせてくださるわけですが、その前にイエス様は愛する兄弟を亡くしたものの傍にイエス様はおられ、その悲しむ者と共に涙を流されたのです。悲しみを一緒に悲しんでくださったのです。イエス様が涙を流してくださったことで、どれほど愛するものを失った女性たちは慰められたことかと思います。

生きていく中で、私たちはたくさんの悲しみを味わいます。涙の谷間を歩むことがあります。でも私たちは一人ではありません。イエス様が私たちの涙を知っていてくださる。ともに悲しみを悲しみとしてくださる。そういう存在が、近くにいますので、悲しみは消え去らないかもしれませんが、安心して悲しむことができます。

泣いてはダメだ、前をむきなさい、そうはイエス様はおっしゃらない、私たちの側に一緒に立ってくださる、私たちの祈りを聞いてくださる。言葉にならない祈りをも聞いてくださる。私たちの思いを受け止めながら、私たちの共にとりなし祈っていてくださるのです。また私たちと共に涙してくださるイエス様が必ず私たちの涙を拭ってくださる日があることをも約束してくださっています。私たちの人生は涙で終わらない、その先には喜びがあることを信じながら、安心して泣いて良いのです。

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