傷ついた魂の救い
國安光
- 淀川キリスト教病院 チャプレン
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『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。そして、中風の人に、『起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい』と言われた。
新約聖書 マタイによる福音書 9章5節-6節
おはようございます。みなさん、いかがお過ごしでしょうか。淀川キリスト教病院チャプレンの國安 光です。さて、私は日々、患者さんを訪問をします。挨拶の時、「私はチャプレンです」と伝えます。するとほとんどの方はポカンとした表情をされます。大抵「チャプレンってどんな役割の人ですか」と質問が返ってきます。私は「チャプレンは医療者と共に、患者さんのお気持ちをサポートするスタッフです。できることがあればお手伝いをさせていただきます」と伝えるようにしています。
そうすると患者さんは安心してお話をしてくださいます。はじめの方は患者さんの多くは仕事のこと、家族のこと、ペットのこと、旅行のことなどご自身の日常のことを話されます。私はお話しをうんうんと聞きながら、質問をして少しお話しを掘り下げていきます。すると何気ない会話からはじまり、だんだんとその人の奥深くにあるものが言葉として紡ぎだされていくことがあります。そしてそうやってお話ししていく中で、これまで患者さんが心に蓋をしてきた、ある未解決の課題や痛みを話されることがあります。涙されがら話されることがあります。
自分が今、こんな辛い状態なのは、自分がこれまでしてきた悪い行いの罰だと思っています、こうおっしゃる方もおられます。または前世が悪かったせいで、こんな苦しみが今自分にあるのだと思います、切実な思いで訴えられる方がおられます。そのような方がおられたら、「私は今の病が罰としてとか、前世のせいでとか、そうは思いません。ただもしそれで苦しんでおられるとするなら、神様は赦しを与えてくださる方なので、一緒にお祈りしませんか。」
そうすると、「お願いします」とおっしゃいます。その時にお祈りを課題を一つ聞かせていただけますか?と質問をすると、多くの患者さんは涙を流されながら、ご自身の内側にある切実な願いを打ち明けてくださいます。そのことを一緒にお祈りをすると、お薬だけではおさまらない、魂の苦しみ、痛みが和らげられることがあります。
チャプレンは医療者のように、直接的に病を癒す知識も、技術もありません。お薬で痛みを和らげることもできません。そういう意味では無力な存在です。でもそういう存在だからこそ患者さんがお話ししてくださいますし、またチャプレンは罪を赦す権威をお持ちでいらっしゃる主イエスの権威を委ねられたものです。患者さんのために祈ることができます。罪の赦しを祈ることで魂の痛みが癒やされすことができる、これはとても大きなことだと私は思っています。
イエス様は、中風という大変な病気、何かの原因で、手足が麻痺をしてしまう、そういう病気を抱えてきた人にこうおっしゃいました。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」「罪が赦される」というのは、これから罪が赦される、という意味ではありません。今、この時に赦される、赦されている、そういう感じの言葉です。「罪」という言葉は、もともとの言葉では複数形になっていて、もろもろの罪、こういう意味の言葉です。
おそらくこの人は、手足が麻痺した後に、自分を責めるような思いを抱いていたのではないかと思います。だからイエス様はおっしゃいます。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦されている。」あなたは自分で自分のことを責めてきたかもしれないけど、神様はあなたのことを責めてはいらっしゃらない、あなたは神様が自分のことを罰しているというふうに思っているかもしれないけど、それにふさわしいことを色々思い出すかもしれないけど、神様はあなたを赦していらっしゃる、だから元気を出すように、主イエスはこの人に語りかけられるんです。
私たちも、ある程度、中風の人が経験したことを味わうことがあると思います。いろんな辛い出来事と会う時に、自分を責める、そういうことを経験することがあるのではないでしょうか。
イエス様は、そういう私たちに「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦されている」おっしゃいます。それは、あなたの罪を、私は全部背負っている、そのことを前提としている言葉です。イエス様は罪の赦しを与えるために、私たちの罪を全部、十字架で背負って、償う方、そこに向かって歩む方となってくださいました。あなたの罪は私の背中にもう移されている、私がこれを背負って十字架にまで進んでいくんだから、あなたはもう赦されている。元気を出すように、イエス様は私たちにおっしゃるんです。
人生のあのこと、このこと、そのせいでもう回復することはない、そうではありません。あなたが得た病は神様が見捨てたことのしるしではないのだ。神様があなたのことを罰しているのではない。あなたの罪が赦されている、イエス様は今日もそのように私たちに呼びかけてくださっています。