さあ、来て、朝の食事を

イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
ヨハネによる福音書21章12節
新約聖書 ヨハネによる福音書 21章12節
おはようございます。男山教会の宮武輝彦です。今日も、主イエス・キリストの恵みが皆様の上に、豊かにありますように。
わたしたちの男山教会では、コロナ禍の間はもてなかったのですが、今では、毎週日曜日のお昼の食事をみんなでいっしょにするときをもっています。おとなも、こどもたちも、イエスさまに感謝しておいのりします。また、お互いにいろいろなことをしたしく語り合うたのしいときでもあります。
新約聖書のヨハネによる福音書の最後の章(21章)には、イエス・キリストと弟子たちがいっしょに食事をしたことが書かれています。それは、ガリラヤ湖とも呼ばれる、ティベリアス湖畔での、静かな食事のひとときです。そして、この食事のときは、とても特別な時間でした。イエス・キリストは、十字架の上で死んで、葬られたのですが、三日目に墓からよみがえり、弟子たちに現れました。けれども、イエス・キリストは、以前のように、いつもいっしょにおられることはなく、ときどき、弟子たちに現れるだけとなりました。この湖畔での食事も、復活ののち、三度目のことでした。
それは、イエス・キリストが復活されてから、三度目の貴重なときであり、また、もうじき、天に昇られる日が近づいているその間の静かなひとときでした。
ここには、あの十字架につけられたときの騒がしさも、イエスを十字架につけようとした人たちの脅かしもありません。まったく、イエスと弟子たちだけの、しずかなひとときなのです。
その食卓に備えられた魚は、弟子たちがとってきた魚でした。そのときのいきさつについてこのように書かれています。
シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子がいっしょにいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちもいっしょに行こう」と言った。彼らは出て言って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。すでに夜が開けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとはわからなかった。イエスが、「子たちよ、何が食べ物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの(が)愛しておられたあの弟子が、ペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から200ペキス(約90メートル)ばかりしか離れていなかったのである。
さて、陸に上ってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、153匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網を破れていなかった。
このように、イエスが用意された食卓に備えられた魚は、たくさんとれた、大きな魚でした。じつは、はじめ、弟子たちは、だれ一人、復活を信じていませんでした。トマスは、最初に弟子たちにイエスが現れたことを聞いても、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」といったほどでした。けれども、二度目に、弟子たちに現れたとき、トマスも、イエスを信じ、「わたしの主、わたしの神よ」とイエスを告白したのです。
あえて、この食事のとき、「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」と書いているのは、弟子たちがみな、復活されたイエスを認め、受け入れ、深いなぐさめの中で、主イエスが備えられた食卓をいっしょにしていることを伝えるためです。
このとき、「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられました。魚も同じようにされた」のです。
イエス・キリストは、このように、毎日の食事をわたしたちのために備えてくださっています。イエス・キリストは、弟子たちに「主の祈り」として知られるお祈りを教えてくださいました。その第四の祈りは、「日用の糧を今日もあたえたまえ」です。毎日、天地をつくられた神さまが、食事を与えてくださっていると信じるとき、わたしたちは、感謝のお祈りをささげるように導かれます。
イエス・キリストは、今、わたしたちのために、聖餐の食卓も備えておられます。それは、イエスを主を信じるものたちの愛の食卓です。通常、聖餐式は、礼拝の中でささげられますが、もともとは、主イエスと弟子たちが、過越の食事をいっしょにしておられたときに、定められたものです。そこで裂かれるパンと、飲まれるぶどう酒、またはぶどう汁の杯は、十字架にかけられたイエスの体と血をしめしています。イエス・キリストの復活を信じる人は、皆、この食卓に招かれています。
イエス・キリストは、わたしたちの身代わりに、十字架の上に、その命をささげ、罪を清めて、天に昇られ、今日も、すべての人びとを愛し、慰め、祝福しておられます。そして、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と、ご自身の祝福のもとに、すべての人を招いておられるのです。ぜひ、あなたも、教会の礼拝と交わりの中に、おいでください。こころからお待ちしております。